ヒット カウンター

若者に告ぐ


若いときは、傍目には元気いっぱいで、好きなことを自由気ままに行っているように見えても内心は不安やあせりで一杯なのが普通だ。
それは、大学でまじめに勉強している者でも、オートバイで暴走行為を繰り返している者でも、精神構造の根本のところでは大差ない。

基本的には不安感で一杯なのが若者の特徴であり、また成長の原動力でもある。
不安感の根本原因は、自分の評価を自分でできないことにある。

自分が優秀なのかだめなのか、強いのか弱いのか、もてるのかもてないのか。
本心から自信を持って自分を評価できるものはおそらく皆無に近い。

まあ、中には本物の天才がいて、しかもそれを正しく自覚している者もいるかもしれないが、こんなのは何百万に一人いるかいないかといった世界であり我々には無縁だ。

若者とは言えないかもしれないが、ノーベル化学賞を取った田中さんは、まぎれもない天才である。
しかし本人の自覚がかけ離れているのは彼の言動をほんの少し聞くだけでわかる。

遠慮とか、謙虚なんて言葉では説明できないくらい自分による自分の評価と実態がかけ離れている。
田中さんの例は極端ではあるが、大体若者の自分に対する自覚はみなこうした傾向(自覚と実態の乖離)があるのが普通だ。

私も若い頃は自分の意識と実態がかなりかけ離れていたように思う。
それは、良い方向にも悪い方向にもだ。

私は昨年の夏、福岡に帰省のおり、大学浪人時代の京都を訪ねた。
昔お世話になった方々を何軒か尋ねたが、思いつきで急に訪ねたこともあり、引越しされていたりお亡くなりになっている方が多く、なかなか知り合いに合えることができなかった。


京都東本願寺

しかし、一番懐かしい方にはお会いすることができた。
それは、左京区の吉田山の下で氷屋さんをやっておられる木田さんご夫妻だ。

私は、この木田さんの2階で下宿したのが京都生活の第一歩だったのだ。
もう、30年以上も前の事なのに木田さんは、一目見るなり私のことを思い出してくれた。

木田さんはやはり、当時のままの氷屋さんで建物は多少増築などで変わっていたけれど雰囲気は昔のままだった。
私はタイムマシンに乗ったような感覚にとらわれた。


木田さんのお宅の前(左端2人がご夫妻、右から2人目私園田)

大喜びしてくれた木田さんではあったが、話が昔に遡ると出るわ出るわ、私の悪行の数々、私は家族の前で学生時代の全てを白日のもとにさらされる結果になった。
もちろん、笑い話としての語りであるので、私もなんとか耐えることは可能だった。

その中のひとつのエピゾードを紹介しよう。
空手をやり始めたころ誰でも経験があると思うけど、何かをむしょうに殴りたくなることがある。

それが捨てられた瓦や板ッキレの場合は破壊してもこれといった被害や迷惑を他人にかけることはないのだが、家の柱や壁を叩きたくなったことはないだろうか。

私はやってしまった。下宿の壁に正拳を入れた。
壁は思ったより軟らかく簡単に抜けてしまった。

木田さんのお宅は長屋だったので(写真参照)、空いてしまった穴から覗くと隣の家の室内が丸見えになっていた。
さすがの私もちょっとまずいと思ったのか、近所の洋服屋(だったと思う)から布の裏にスポンジが貼ってあるもの(なんて言う名前なのかな)の切れ端をもらってきて壁に糊で貼ってごまかしたのである。

木田さんは、私が下宿を引き払った後この穴を発見したらしい。
その他2階の窓から下の道路に小便をしたり、とにかくろくなことはしてないのである。

しかし今回の話で一番私にとってショッキングだったのは、木田さんにとって私が最後の下宿人だったという話を聞いたことだ。
下宿人をおくのを止めた理由が私にあるのは明らかだった。

しかし、もしかしてという淡い期待をこめ、念のため「私が原因でしたか」と問うと。
ニコニコしながら「もちろんそうですよ」

私がサッカーの練習だといってボールを向かいの家のブロック塀に蹴り続けていた時、
そこの家には私と同じくらいの年の受験生がいて、京都大学をめざして猛勉強していた。
向かいのお母さんが、「音が子供の部屋を直撃して勉強できない」、木田さんにお宅の下宿人がサッカーボールを蹴るのを何とか止めさせてもらえないでしょうか、と相談したという話。

私が時々友達を呼んで、夜中2階でボクシングのスパーリング(もどき)をやること。(私が借りていた2階は8畳と6畳の続き間で合計14畳あり結構広かった)
翌日木田さんのおばあちゃんから「夜中に上からドスーン、ドスーンいうて、寝られしまへんでしたわ」


この2階が私が下宿していた部屋

私は、こういう言葉に無神経と言って良いほど鈍感だった。
もちろん、その当時は無神経や鈍感といった感覚はまったくない。

自覚としては、自分はかなり神経質で繊細な感覚を持っていると思っていた。
思うに人は皆、神経質で繊細なのだけど、その感覚が向かう事象や対象はまるで違うということなのだ。

今は十分な自覚がある(と思っている)が若い頃は音(騒音)には無神経だった。
おばあちゃんにクレームをつけられても、言い方がやさしいと、それを「クレームを遠慮しながら言った」というようには解釈できず、挨拶のひとつ(俺に話し掛けるきっかけがほしいのかな)ぐらいトンチンカンな感想を持っていたのである。

周りの人には、人生を変えるくらいの迷惑を与えたり、傍若無人に振舞っていた私だが、自覚は真反対だった。
のめり込んでいた空手のことばかり考えながら、やはり大学受験の事や将来の事が気にかかるし、故郷の父や母のことも気になっていた。

毎晩、銀閣寺の前の屋台でコップ酒をあおりラーメンを食っていたのはこうした不安感の裏返しだったと思う。
そんな不安定な精神状態でも友達にはかけらもそれを見せないようにしていた。

なぜなら、友人は皆、楽天的で悩みなんかひとかけらも持ってないように見えたから。
今、考えると皆50歩100歩だったように思う。

今、もう一度若者に返ることができたなら、もっと自信を持って、おおらかに、しかし、木田さんに、九州の男はやさしく、思いやりがあり、礼儀正しく、次に下宿人をおくなら絶対に九州男児だと思いつづけられるように振舞えると思う。

しかし、これは絶対にできないことだ。
だから若者は、皆回りに迷惑をかけ、そのくせいつも不安感を持ち、根拠のない自信と根拠のない喪失感の間を揺れ動く存在なのだ。

まず失敗しないで人生を歩むことは不可能だということを知ること。
そして、失敗すれば、またチャンレンジすればよいし、迷惑をかけたことに気が付けば謝ることだ。

これが、今私が若者に告げたいことだ。
私は35年ぶりに木田さんに謝ることができた。

つづく

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