ヒット カウンタ

人は進歩という強力な武器を手に入れた。


2008/11/16

人類はあらゆる分野で進歩を続けている。
文明の功罪をシニカルに批評する人はいつの時代にもいるが、大きな流れで人類が進歩を続けていることは明白である。

ローマ時代の平均寿命は20歳台だったと聞いたことがある。
昔は公害もなく皆健康的だったと言う人もいるが、実態は若くして多くの人が疫病や飢饉で亡くなっており、生き残ったわずかな連中が健康的に天寿をまっとうしたに過ぎないのだ。

科学分野においてもとくに産業革命以降の進歩の速度は劇的である。
文学や音楽、美術などの分野においても人類はすばらしい発展を遂げている。

なぜ、人類は他の動物と違ってこれほど劇的に加速度的に発展していくことができたのだろう。
サルの世界でも芋を洗ってたべる一団や道具を使う一団の存在があるらしい。

でも、いつからそうした文化を持つようになったのか知らないが、最近急速に進展したという話は聞かない。
海で生きるイルカなどもかなりの知能をもった生物らしい。

でも、毎年進化しているなどという話は聞かない。
なぜ人間だけがこれほど劇的な進化をみせるのか。

この答えは、実はすぐ察しがつく。
人類の発祥は50万年くらい前らしい。

これは気が遠くなるほど昔のことだ。
50万年かかっての進化が現在ということになる。

一方記録に残っている我々の歴史はいつ頃が最古だろうか。
日本最古の文学といわれる源氏物語は今年で誕生から1000年ということで、いろいろ出版など特集が組まれたりしている。

でもこれは最古だといってもたかだか1000年である。
50万年という人類の歴史からみれば、誤差の範囲だ。

世界に目をむけても記録された歴史という観点からみれば最古のものでもだいたい数千年といった単位であり、数万年まえなどというと陰も形もない。
歴史の教科書では1ページで収まってしまう石器時代以前が実は人類の歴史の99.9・・・%を占めているのである。
そして、この間進歩は殆どない。

30万年前の人類と40万年前の人類の生活水準は殆ど同じであろう。
10万年も差があるのに。

生理学的に見た人間の知能はそうそう簡単に変化するはずがない。
1000年前の人類と現在の人類の科学的なレベルは計測不可能なほど格差があるが、生理的な知能差は全くないと言って良いだろう。

アリストテレスやピタゴラスを超える知能を持った人は現在でも極めて少数であるだろうけど、成長した段階の彼らをタイムスリップで現在に連れてきても平均的な現代の大学で電子工学や情報理論の勉強してもインターネットを理解させることは困難であろう。
10年間彼らを現代の大学で留学させて元の時代に連れもどしても、彼らが自動車を作りジェット機を飛ばし、携帯電話を発明し、コンピュータを作ってインターネットを普及させることは不可能である。

技術は過去の知識の集積によって生まれるものであり、その過程を追った理解が得られないと真の知識とは成り得ないからだ。
そして、技術や知識はその分野だけでなく他の周辺領域の技術や知識と有機的に結合しあって進歩しているからだ。

例えば現在の乗用車のエンジンをそのまま戦前にタイムスリップして持ち込んで、それを機械的に分解しても同じエンジンを作ることはできない。
コンピュータ制御の分野は言うまでもないが、単純にピストンやシリンダーの材質(これは化学の分野も関係する)に関する技術や工作精度など生産技術分野でのノウハウの蓄積がないからである。

こうした技術的な分野に限らずあらゆる知識の伝承は記録されなければ後世に残すことはできない。
知識の伝承こそが全ての進歩の源である。

もっと具体的にいうと人類が紙を持った事。ここから全てが始まった。
これを5000年前とすると、それまでの49万5000年は、進歩はまったくなかったに等しい。

口述での伝承はその量が1人の記憶量(メモリ)に限定されており、メモリの限界を超えた伝承は不可能になる。
親子代々どんなにがんばって伝統を受け継いでも、メモリの壁を越えることは不可能だ。

これは49万5000年間の停滞が実証している。
紙の発明から知識が蓄積されながら伝承できるシステムができた。

これからの人類の進歩は震えが来るほど凄まじい。
そして、印刷という技術によって進歩は爆発し、現代のコンピュータの出現によってその変化はカタストロフィーといっても過言ではないほど常軌を逸している。

どんなに進歩が速くなったと言っても、親と子が違う知識や生活習慣を持つという時代はたかだか数十年前からだ。
例えば100年ちょっと前の江戸時代ですら、教養として学ぶ知識は四書五経が主な物で、知識人の間での世代格差は殆ど起こりえない。

現在では10年世代が違うと別世界の背景を持っている。
この事を否定的にとらえる論評は多いが、これは、昔は良かった式の懐古趣味の影響を差し引かなければならない。

「昔は自然食だったから人は皆健康でした」式の主張と同じだ。
人類の歴史のなかで、多くの人が生理的な限界まで生き延びられる事になったのは、50万年の歴史の中で最近数十年間であり、それまでは大半が飢餓と栄養失調、ウイルス感染で若死していたのだ。

現在は、公平な目で見て、人類史上圧倒的に幸福な時代である。
それは全て知識の蓄積が生み出したあらゆる分野における進歩が生み出したもので、その原因は知識を記録する手段を人類が得たことによる。

それは、49万5000年の遅々たる進歩の末やっと手に入れたものである。
ここまでは、実は先週大学で講義した内容である。

先週の講義はマルチメディア論がテーマであった。
マクルーハンの「グーテンベルグの銀河系−活字人間の形成」(1986)という当時としては革新的なメディア論の前提としてこの話をした。

マクルーハン自身はメディアとはメッセージであり、人間の五感を拡張したものとしてとらえる。
現代はこの人間の五感の拡張としてのメディアが5000年間の紙の果たした知識の集積からコンピュータを駆使した知識の検索、抽出、そしてあらたな組み合わせや発見といったものがこれまた劇的といった言葉では表現できないような非線形的、爆発的スピードで行える人類がかつて経験した事のないカオス的状況にある。

人間は基本的には保守的であるので、おうおうにしてこういう変化は心情的には否定的なとらえ方をしがちだ。
しかし、こんな劇的な状況は、この50万年のどの時代の人間も経験したことのない世界であり、少なくとも生きてこの状況を経験できる我々は幸運である。

そうは言っても、現実に目を向ければ、社会変化の激しさとそれについていけない既存のシステムの機能不全などで世界はかつてない不安定な状況に陥っている。
金融シテスムの崩壊だとか資本主義の終焉だとかマスコミの論調がこれに拍車をかける。

そういえば時価会計基準が見直されるという話が最近ニュースのあちこちで散見される。
時価会計の凍結、つまり取得原価主義に戻せという議論だ。

時価会計の話は不良債権とは何か(2002/10/12)に、会計基準をころころ変えることが問題だとして詳しく述べた。6年前のことだ。
たった6年でまた元に戻すのか?

アメリカの言う事に無批判で付いて行く日本が情けない。
問題はどちらのシステムが良いかではなく6年前にも言ったが継続性の重要性にある。

経済状況はまだいろいろ劇的な変化を見せるであろう。
しかしこれらを総悲観的に捉える必要はない。

変化、特に急激な変化は人は本能的に嫌うが、実はここには多くのチャンスが埋まっている。
戦争や天災は歓迎したくないが、経済的な変化というものは例えそれが不況というマイナスの方向であっても何とかできるものである。

少なくとも現在の日本では命を取られる事はない。
最悪のパターンの覚悟さえできれば、知恵と努力でチャンスに変えることだって不可能ではない。

常にこういう激変の中に居てそれを体験できるという幸運さ、それは50万年の人類の歴史の中の最後の数十年でしか体験できない天文学的な小さな確率の中での幸運であることを意識する事だ。
人はミクロの世界ばかり考えると悲観的になりがちだ。

たまには50万年のスパンで物事を考える事も意味がある。
我々は進歩という強力な武器を持っているのだから。

実は書きたい事は別にあったのだが書き始めているうちに筆が滑ってこういう方向になってしまった。
本当は空手の稽古の方法について書きたかったのだがあまりに長くなるのでそれは次の機会にしよう。

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