ヒット カウンタ

不良債権とは何か


今回は武道からちょっとわき道に入るが経済の話をしてみたい。
ニュースで政治経済がらみの話題になると、必ずでてくるのが「不良債権」という言葉だ。

いわく、

不良債権を処理して経済をたてなおす。
不良債権処理なくして景気回復はありえない。

不良債権処理の大合唱である。
日本の首相が海外に行ったときも外国の大統領からこれを要求されたりしている。

まあ大きなお世話だと私は思うのだが。
不良債権とは、わかり易く言えば、返してもらえないかもしれない借金のことである。

問題はこの「かもしれない」という点にある。
逆に言えば、返してもらえるかもしれない借金なのだ。

もともと、借金というのは
100%回収できるという保証などどこにもないしろものなのだ。
それが、何でこんなに問題になっているのか。

経済史的に見れば、
1989年のバブルの崩壊のあと、銀行が担保としてとってきた不動産の価値が暴落したことがその根本原因だとされている。

担保に取った土地の価格が下がった。
その処理を後回しにしてきたことのツケが現在まで尾を引いているのだという。

はたして、そうであろうか。
私は、小規模ながら会社を経営していて、この論議はうそだと思っている。

数値を挙げての定量的な議論は今回は省略するが、ざっくり言うと現時点での不況といわれている経済の実態はその原因はずばりデフレにある。

デフレの問題の大きさは一年程前に「武道家から見た経済学」で詳しく述べた。
この一年だけ見ても状況は良くなるどころか、ますます悪化している。

デフレの深刻さに比べれば、不良債権などというものは机上の空論と言ってもよいくらい小さな問題である。
特に日本の不良債権は諸外国のそれと比べてもかなり良質である。

なぜ良質であるかという議論も言いたい事は山のごとくあるが定量的に解説すると長くなるのでこれも今回は省略する。
一介の武道家でかつ小企業の経営者としての目線で、不良債権の本質を解析し私の考えを述べてみようと思う。

不良債権はまず特筆すべきことは、その実態は全て机上の空論であるということ。
言い換えれば、貸借対照表の問題であるということである。

ちょっと専門的になるが、時価会計という言葉を聞いたことがあると思う。
いわゆるグローバリゼーション、世界標準化の波とやらで取り入れられている考え方だ。

早い話、物の価値を買った値段でなく、現時点での市場価値で評価するという考えだ。
これは、一見合理的な考えのようであるが、良く考えるとそうでもない。

例えば、恋人に
10万円のダイヤの指輪を買ってもらった彼女は、その後そのダイヤが暴落して1万円になったとしても、心の中の貸借対照表は永遠に10万円ではないのか。
(その後喧嘩したりすれば変動するかもしれないけど)

ダイヤの価値を買った時点の価格(10万円)で評価するのが取得原価主義で、現時点での相場(1万円)で評価するのが時価会計だ。
株価の変動性を考えるまでもなく、価値というものを合理的に定量化するのは大変むずかしいのだ。

価値というものは本来主観的なものだ。
主観的な価値をなんとか定量化しようとしたものが相場という考えだ。

相場といっても、つまるところは大勢の主観の平均値でしかなく、価値の合理性を実証するものではない。
過去のオランダのチューリップ相場や、ちょっと前のクワガタムシの馬鹿げた価格などを挙げるまでもないだろう。

価値論の話はまあ置いておこう。

日本では伝統的に原価は取得時の価格で処理するという考えだ主流だった。
帳簿上の資産の価値はそれを買った値段だとする考えだ。

この考え方が合理的であると主張する考えは毛頭ない。
一方時価会計の方が理があるという考えも必ずしも正しくないという考えは先に述べたとおりである。

問題はどちらが正しいかということにあるのではない。
時価であろうと取得原価であろうと、一貫性の確保のほうがはるかに大事だというのが私の主張だ。

諸外国からちょっと圧力を受けると、こういう大事な原則を軽々しく変更してしまうということを問題にしたい。
そもそも、日本が首尾一貫して取得原価主義を貫いていれば、現時点で問題になっているほどの不良債権は存在しない。

それは、暴論だ。世界標準に逆らうものだという反論が聞こえてきそうだ。
じゃ、逆に質問しよう。

じゃ、不良債権で何が問題になっているのか。
なぜ、こまるのか。

銀行の自己資本比率が下がるのが問題だという。

それも取得原価主義でいけば、自己資本比率だってそんなに下がらない。

いや、
100歩譲って仮に下がったとして何が問題になるのだ。(8%基準自体を馬鹿げていると言いたい)
日本は、銀行に限らず全ての企業は歴史的に自己資本比率は欧米にくらべると遥かに低い。

しかし、我々はこの状態で経済活動を行い、アジア一、いや世界でもトップクラスの経済大国を作りあげたのではないか。

日本の不良債権といわれるものの実態は突き詰めると土地と株である。
もっと突き詰めると時価会計主義で書き換えられた貸借対照表の数値だけの問題である。

戦争で大量の労働力を失ったわけではない。多くの工場が天災で失われたわけではない。
貿易赤字やその他で膨大な対外債務を負っているわけでもない。

少しまえ、日本興業銀行に勤めている同窓の
M君と議論していて面白い考えを聞いた。
彼は文科系であるが、今、微分積分を勉強しているというのだ。

彼がどういうプロセスでその話をしたのかは忘れたが、要約すると貸借対照表は積分で損益計算書は微分である、といった議論を彼は専門用語を駆使して展開していたように思う。

貸借対照表というのは資産状況を表す指標で、資産の価値を面積に置き換えるとまさに積分の考えに相当する。物理的にいえばスタティックな概念だ。
一方損益計算書は、キャッシュフローを表す指標で、面積などの絶対値ではなくその変化率を問題にする考え方だ。物理的に言えばダイナミックな概念である。

現代の会計学は、よりダイナミックな視点を重視する方向にある。
ひとつは、コンピュータの普及により、あらゆる会計処理のリアルタイム性の確保が容易になった点をあげることもできる。

人物評価に例えると過去の実績で評価するのを積分評価だとすると、向上率や現時点での方向性を重視するのが微分評価ということになる。
不良債権というものをこの考えでとらえると積分値ということになる。

時価会計というのは、面積で言えば、X軸の目盛を相場の動きで変えてしまうことに相当する。
これだけでも大変なことなのだが、いままでX軸の目盛は固定です、という前提で計測したものが突然今年から目盛は可変ですと言われたらどうなるのか。

経営上何の問題もない会社がただ保有する資産の相場が下がったという理由だけで帳簿上それを顕在化させられてしまう。

人物で言えば過去の実績を現時点の評価で変化させてしまうようなものだ。
いったん与えたノーベル賞をさかのぼって取り消したりすることに相当する。

今回
2人の日本人がノーベル賞をとり、大変嬉しくまた日本人として誇りに思う。
しかし、これを来年評価の基準が変わりましたといって取りけされたらどうなるのか。

私は、過去の全てのノーベル賞を現時点で見直せば、決して公平ではない受賞が少なからずあると思う。
現時点からみれば、すごい大発見や大発明をその時点では誰も認識できなかった、なんて事例は山ほどあるだろう。もちろん逆も。

しかし、だからといって、現時点での評価で過去を全て変更されたのではたまったものではない。
もちろん経済指標である資産価値というものをこのような栄誉賞と同等に扱うべきものではないということは百も承知している。

しかし、評価軸をくるくる変更する、しかもそれを自主的なものではなく、政治的あるいは経済的な外部圧力に迎合する形で行われるならこんな情けないことはない。
そもそも、バブルの発生も、けたたましく強くなった日本経済に対する外国の警戒と圧力に迎合する形で内需拡大路線に走り、架空の信用供与による土地投機を発生させたことが原因だ。

不良債権問題ではっきり認識しておかなければならない要点が
2つある。

それは、

国内問題であること、
帳簿上の問題であること、
だ。

もう少し噛み砕いて言えば、

対外債務(外国からの借金)ではないということ。
実質的な損害(エネルギーあるいはエネルギー発生システムの毀損)ではないということ。

これが、私が不良債権とは机上の空論であるという所以である。
現在の日本の問題は実は不良債権問題ではない。

問題の根源はデフレなのだ。
現在、この二つは同等あるいは不良債権問題主導で語られることが多いがそれは間違いだ。

デフレを克服することが第一でなければならない。
デフレを克服するにはどうしたらよいかという問題に対しても論を展開したいのだが、あまりに長くなるのでこれはまた章をあらためることにしよう。

それから、ここでの論議は時価会計自体を否定するためのものではない。
不良債権問題を実際以上の問題に演出している原因の一つにこのタイミングの悪い会計制度の変更があるということを言いたかったのだ。

不良債権問題が今の日本経済の問題点の全てだといわんばかりの論調にまったをかけるために例として出したまでで、実は問題はデフレにあるということを言うための前哨戦でしかないことをお断りしておく。

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