政治家はなぜ「お願いするのか」その9

2011/1/27


 

リーダーの条件

 

ここに二人のお医者さんがいる。
一人は医者としての技量は最高だが、とても取っ付きの悪い人。

 

もう一人はとても善良で人当たりも良いが、医者としての技量はいまいち。
もしあなたが、自分やあるいは自分の大切な人が命に関わる大病をしたとき、どちらのお医者さんに命を託したいだろうか。

 

友達として酒を飲むのであれば良い人と飲むほうが楽しい。
しかし、大切な人の命を託すとなれば、肝心の医者としての技量に疑問がわく人は選択したくない。

 

平和で日常的ないとなみの中では、人は有能であるかないかより、気が合うかどうかで付き合う相手を選択している。
しかし、命にかかわるような状況に陥ったときは、この状況を切り抜けられる技量を持った有能な人に託したいと思うのは自然なことだ。

 

どんなに人格が優れていても、性格が良くても、問題を解決する基本的な力が無い人には命を預けることはできないからだ。
これはリーダーを選ぶときにも当てはまる原則である。

 

自分たちの命を預けるには、まずその問題を処理する能力が長けていなければ候補に挙げる事さえできないはずだ。
有能であること。

 

もちろん、有能であるだけではリーダーとしての条件は満たさないことは言うまでも無いが有能以外の条件はあらゆるところで論じられているのでここでは省く。
こういう議論をすると、人格的に優れた人は有能なはずだ、とか人間性が全てに優先されるべきだ、といった意見を言う人たちがいる。

 

そうだろうか。
では聞くが、たとえば、飛行中にパイロットが急死したとする。

 

この状況で、乗客の命を救える可能性が一番高い人は「人格的に優れている人」だろうか。
そうではない。この状況では一番欲しい人は飛行機の「操縦能力のある人」であって「人格的に優れている人」ではない。

 

もちろん同じ能力の持ち主であれば人格的に優れた人の方がより良いのは当然だが、墜落中の飛行機の中では大したファクターではない。
有能である事。これが一番重要なのだ。

 

しかし全ての人々が全ての事柄において高い能力を持つ必要はない。
高い能力を必要とするポジションは、社会全体から言えば少数だ。

 

いわゆる専門職といわれる職業や集団を率いるリーダーがその主なものだろう。
特に集団のトップであり、意思決定権を持つリーダーは、物事において適切な判断をする知識と適切に対処し行動に起こせる実行力が何よりも必要となる。

 

日本は昨日アメリカの有名な格付会社スタンダード&プアーズから国債の格付けを下げられた。
昨今の日本の政治、経済状況を考えれば、良い気分はしないが決して突飛な判断とは言えない。

 

しかし本日(平成23年1月27日)夕方この事を記者に質問された総理大臣の言葉に耳を疑った。
「今始めて聞いた。そういう事に疎いので・・・・・・・・・」

 

この方は、悪気は無い。
正直な方だと思う。

 

厚生大臣の時、エイズ患者に対して国を代表して謝罪した。
人間的にとても温かみがあり人格的にも立派な人だと思う。

 

しかし、有能であるとは言いがたい。
この方は財務大臣も務めていた方だ。

 

そして今は総理大臣。
「そういう事に疎い」の「そういう事」は、日本の赤字国債の問題であり、デフレを元凶とした日本経済の根幹問題ではないのか。

 

これは、政治を専門とする政治家という観点からも、総理大臣という日本のリーダーという観点からも「私は無能です」と宣言したに等しい。
日本は伝統的に無能なリーダーが担ぎ上げられる事が少なくない。

 

無能であるということがある種の安心感を与えるからだ。
それは裏返せば日本は海という自然のバリアで守られ平和で安全な国であった証でもある。

 

誰がリーダーでも外敵に滅ぼされることはまずない。
中途半端に小うるさい有能なリーダーより好き勝手にやれる温かい無能なリーダーのほうが快適だからだ。

 

「俺について来い」と言うリーダーより「お願いします」と頭を下げるリーダーの方が心地良いという心情も理解できる。
しかし、生死をさまよう病人にとって一番必要なのは有能な医者であり、墜落しかかった飛行機から乗客を救えるのは有能なパイロットであり、沈没しかかった

国から国民を救えるのは有能な政治家なのだ。

 

有能で強い政治家が温かい人格者であれば最高だ。
(この文章は特定の個人や政党、宗教団体等を誹謗したり応援するものではない。)

 

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