ヒット カウンタ

久々に見るガチンコの喧嘩2(ライブドア対フジテレビ)


ライブドア対フジテレビの喧嘩は、想像以上の大騒ぎになってニュースでも再三取り上げられるようになった。
2月12日土曜日(2005年)に私がコラムで書いた時はまだ殆どのマスコミでは大きく取り上げてはなかった。

しかし、翌13日の日曜日ではテレビ朝日のサンデープロジェクト(田原総一郎司会)では堀江社長が出演していろいろ喋ったそうである。(私は見ていなかった)

その中で堀江氏自身が私がコラムで書いていた「私がライブドアの社長であれば、ニッポン放送を手中にすれば間髪を入れず増資を実行し、株式の総数を増やすであろう。そうすれば分母が増えるのであるからフジテレビの持分である株式は結果的に希薄化して25%を割ることになる。」と書いたのと全く同じ事を言ったのでびっくりしたという話を聞いた。

たまたま「分母が増える」などという言い回しまで一致したので驚いたのであろうが、内容自体は会社の経営を行っている者であるば誰でも考える程度の事だ。
あれから1週間が経つが、この喧嘩は思ってもいない方向に進んでいる。

堀江社長がマスコミに登場していろいろ喋るのは彼の戦略の一つでこれは選択肢の一つとして考えうる行動だ。
一方のフジテレビの側はちょっと歯切れが悪い。

記者の質問に答える形ではあるが堀江氏のやり方と人格に腹を立てているというのがありありと見える。
そして今日にいたっては政財界からも一斉に同じ論調のライブドア批判の声が上がっている。

「時間外取引での大量の株式の取得は問題だ」、とか「相手側に同意を得ない敵対的な買収姿勢は問題がある」といった批判だ。

一方堀江氏の主張は前から一貫している。
そもそも株式を上場するというのは、誰が株式を取得するのか分からず、場合によってはこういうリスク(乗っ取り等)を負う前提で資金を集めているのであり、会社は経営者のものではなく株主のものである、という主張だ。

そして、敵対的買収であれ時間外取引であれ、それがあらかじめ定められた規則の範囲であればなんらやましい事ではないという考えである。

この考えは、実は単純に良し悪しを結論づけられる問題ではない。
この背景にあるのはそもそも規則というのは、必要条件であるのか十分条件であるのかという根本的な思想の問題に根ざすからだ。

十分条件というのは、規則はそれを守ってさえいれば、何らとがめを受ける事がないという考えで、
必要条件というのは、規則とは原則を示すもので最低これだけは守って欲しいという雛型に過ぎないという考えだ。

政財界の批判は全て規則は必要条件という思想が背景にある論理でなされている。
それが、「規則さえ守っていれば何をしても良いのか」という言葉になって現れる。

一方堀江氏の論理は、規則は十分条件であるという考えだ。
予め決められた規則でお互い平等の立場で争うのが法治国家であり、民主主義であろう、という考えにたっている。

勝負の前に決められたルールで始まった試合の途中で、一方が勝ちそうだからルールを変えようというほうがフェアではないのではないかという主張である。

この二つの考えは、奥の深い問題であり、単純に良し悪しを結論づけられる問題ではない。
例えば、現空研の10人組手であるが、この組手試合におけるルールは当然のことながら現空研ルールで行われる。

しかし、そのルールは何条にもわたる詳細なものではない。
顔面は寸止め、防具のあるところは制限なしの突き、蹴りを許す、下段に関しては相手を破壊する目的での攻撃は許さない、といった簡単なものである。

また、下が畳やマットなどの場合は、投げ技や関節技、締め技も許可することがある。
そして、最後にこう付け加える。

これは審査のための試合であって勝ち負けを争うものではない。
お互いに武道精神にのっとって、安全性に留意し正々堂々と技を競って欲しい。

これは、ルールではカバーしきれない、いわば想定外の状況においても基本精神にのっとった試合をして欲しいとの要望を言っているのである。
しかし、こうしたルールで問題なく試合が行われるには、当事者が共通のコンセンサスとして現空研の精神を理解している必要があり、また勝敗だけでなくそうした試合態度も評価の一環にあるという事が前提になる。

もし、これが路上の暴力に対しての実力行使であれば、こうした前提がなくなるのである。
しかし路上暴力であってもルールが全く無いかといえばそうではない。

正当防衛であるか否かといった適法性の問題を抜きにしても、相手が極悪人だからといってどんな手段でどんな酷い目にあわせても良いという風には普通は考えない。
中途半端な手加減なんかはしないが、やはり人間としての最低限の尊厳(相手の)は守ってやるという考えを持つのが男らしい男の心情だ。

昔は男の子の喧嘩のしかたはその地方や集団別で暗黙のルールがあった。
最も根源的で基本のルールは相手を殺さない、ということであったと思う。

それから、目を潰したり、身体に障害を残すような攻撃はしないとか、言葉でも禁句になるものがあって互いの最低限の名誉は守るといった事もあった。

これを、破れば例え勝負に勝っても、汚い奴だとか卑怯者と呼ばれ決して強者としての尊敬を得ることはないのである。
問題はこうした暗黙のルールであってもお互いその基本精神の部分が明確でなければ、ルール自体が成り立たなくなる。

こうした暗黙のルールはルールというよりむしろ文化といったほうが良いのかもしれない。
ルールは明文化できる本来のルールとこうした文化に属する暗黙のルールが合成されてできている。

今回の喧嘩で両陣営あるいはそのシンパの論議を聞いていると、このルールというものの捉え方が異なることに気が付く。

ルールを守っているのだからとやかく言われる筋合いはない、と主張する堀江氏が言うルールとは明文化されたルールであり、それ以外の要素は(文化)などはルールではないという考えである。
だからルールさえ守っていればそれが十分条件を満たしたものであり、その中での戦いは正々堂々としたものであり、負ければ負けた方が悪いといった結論になるのである。

一方フジテレビ、政財界の反論は、明文化されたルールは本来のルールの中の一部分であり、社会とはこうした明文化されたルール(法律等)だけでは成り立っていないという考えが基本にあるのだ。
法律を守るのは当然であるが(必要条件)場合によってはそれだけでは不十分であるという考えだ。

私も、どちらかといえば明文化されないルールの存在を重視する立場であり、規則さえ守れば良いだろうという考えには組しない方であるが、今回のライブドアの行為に関しては、あまりにも堀江氏のバッシングが過ぎるように思う。

堀江氏のテレビでの態度や言動は私も好きではない。
しかし、今回の件に関しては堀江氏の喧嘩は卑怯だとは言えないと思う。

まだ勝負はついてないのだが、もしフジテレビが負けたとしたらこんな情けない事はないと思う。
また勝ったとしても、後だしジャンケンのように、政財界こぞってルールの改変を行ったり(現にそうした動きが感じられる)ある種の圧力でライブドアを押しつぶすような行為があったとしたら、これほど卑怯な手段はないと思う。

ルールに不備があったとしたら、それはルールを作った者やそれを容認していた社会に問題があるのであって少なくとも堀江氏に責めを負わすようなものではないはずだ。
今問題視されている時間外取引だってマスコミの買収問題だって過去にも同じようなケースは何度もあったがそれがこのような形で問題視されたことはない。

今回の問題はひとえに堀江氏の不遜な態度が気に食わないといったレベルが根底にあるのは誰が見ても明らかだ。
私だってそう思うのだから。

でも堀江氏は違法な事はしてないし(現時点の情報では)卑怯でもない。
彼の言っていることは正論である。

言葉を変えれば男らしい喧嘩だと思う。
堀江氏を批判するとすれば彼の経営姿勢や哲学であって、それは個人の自由の範囲で許されるものだ。

彼の会社がうまくいくかどうかは市場が判断することであり、社会が判断することである。
私は彼の哲学には組しないが、今回の喧嘩に関してはその手腕を高く評価する。

フジテレビは喧嘩を売られたわけだから、正々堂々と受けてたてば良い。
グループのサンケイ新聞は私もとっていて一番評価している新聞でもある。

この喧嘩の成り行きは注目して見守りたい。

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