揚長避短

 

中国に揚長避短という言葉がある。
文字通り解釈すると長ずるところを揚げ、短する所を避けよということである。

私はこの言葉を台湾のある経済の実務家が台湾の工業の発展の原動力の思想として語っておられるのをテレビで見たのであるが、大変良い言葉だと思ってメモしておいたのだ。
日本でも西洋でも、教育や訓練の基本姿勢として長所を伸ばし短所を改めるという思想はもちろんあったし、現在でもある。

しかし、その考えの基本にあるのは長所を伸ばすというのと短所を改めるという二つの要素の重み付けが無意識のうちにフィフティーフィフティーになっているような気がする。
というより、特に日本においては短所を改めるということにより重きが置かれているのではないか。

ちょっと思いついただけでも

「他人に迷惑をかけるな」
「無事が何より」
「無病息災」
「七転八起」
「災い転じて福となす」

といった普段我々が何気なく口にする4文字熟語や慣用句も欠点や否定的な事を正すという視点に重きがおかれていることに気付く。

「他人に迷惑をかけるな」という言葉は迷惑をかけるという短所というか望ましくない状況を基準にして、それを否定するという立場だ。
ここには他人を喜ばせようとか、社会に貢献しようといった発想は見られない。

「無事が何より」も頻繁に耳にする言葉である。
ここでいう「無事」は何事も無いということで、「事」というのは悪い事という暗黙の了解のうえで成り立っている。
ここにも、良い事が起きるという視点はない。

「無病息災」はより具体的な言葉である。
病がなく災いも無いことを念ずるということだ。
より逞しく、よりエネルギッシュで、積極的な活動を念ずるといった思想は無い。

むしろ「好事魔多し」などといって良い事があっても悪い事の前兆であるから気をつけろ、なんて言葉でより消極的に持っていこうとする言葉があるくらいだ。

「七転八起」は笑ってしまうくらい具体的だ。
転ぶたびに起きるということで、前提は全て失敗なのだ。
意味するところは失敗しても諦めるなということで、起き上がったところが幸福であるかどうかということには一切関心はない。

話は横道にそれるが「七転八起」はちょっとヘンだな。
1回転べば1回起き上がれば元に戻るのであって、7回転んだのであれば、7回起きれば用は足りる。

8回起きるには8回転んでなければならない。
まあ、違う意味があるのかもしれないのでこれ以上はつっこまないけど。

「災い転じて福となす」は初めて積極的な福という言葉がでてくるけど、やはり災いというマイナスイメージが基盤になっていることには変わりがない。
大体、仕事をリタイヤしたり大役から退くとききの定型文句としても頻繁に使われるのは「大過なく」なのだ。

要するに、現状維持がもっとも望ましいという思想が根本にある。
私はこういった無事を最良とする思想はあまり好きではない。

この考えは武道の見地からみると守りに偏った考えである。
守りに徹することは必ずしも最良の防衛にはならないことは専守防衛の項でも述べた。

攻撃を選択肢の一つとして必ずしも否定しないことが最良(効率的という意味で)の防衛につながるという話をした。
結果的には現状維持を目的としても手段としてはより積極的な選択肢もバランスよく保持しなければ目的の効率的な達成は難しい。

これは何も武道の世界に限ったことではない。
保守的な組織においては人物の評価は減点法になる傾向がある。

失敗をしないことが立身出世の必要要件になるというルールが暗黙のうちに醸成される。
そういう組織では人は皆経歴に汚点を残さないことに汲々とするようになる。

したがって毎日を無事に過ごし、大過なく役目を果たすことが絶対命題になるのだ。
今日、日本の状況を悪くしている根本原因の一つにこれがある。

この無事が一番という考えは根深い。
これは、教育思想や会社や国の組織の根本的な運営原理だけでなく、一般の人々の生活や娯楽の世界まで浸透している。

この考えは正していく必要があるのではないか。
というか正さなければ、それこそ無事ではいられなくなるであろう。

無事であるためには無事は最良ではないという考えをもたなければならない。
ではどういう考えが良いのか。

良い悪いというより最低限の生存のための条件、そしてそれが確保されればより以上の幸福の追求というおそらく人類共通の目標を追求するためのより効率的な原理としてどういう考えが理にかなっているのか、という視点から考えてみたい。

個人はみな特異な存在だ。
大きな人もいれば小さな人もいる。
体が丈夫な人や頭が良い人、事故で障害を負った人もいれば、先天的なトラブルを抱えた人もいる。

人が1000人居れば1000の個性がそこにはある。
それぞれの人が特異な長所と短所を持っている。

長所を伸ばし、短所を正すことが個人を向上させ、ひいては社会の向上につながるのは論ずるまでもない。
しかし、これを今までの日本社会の原理で実行すれば、無事こそ最良という考えになる。

この考えは短所にのみ焦点をあてた考えである。
そして短所を正す(あるいは隠す)ことにエネルギーの大半を使って人生を終わってしまうという現実が今見られているのだ。

そこで最初にのべた中国のことわざ揚長避短を考えて見たい。
この思想は短、つまり問題点や欠点に関しては「避」という考えだ。

これは、対策としては最も消極的な部類に属する。
例えば「避難」という言葉がある。

これは難に対してはこれを打ち砕くというような積極的な考えではなく、とりあえず避けるという考えだ。
要するに、避短という考えは欠点に関しては、とりあえず避けておく程度で許すということだ。

欠点や短所の存在は決して誉められるものではないのだが、それの克服にばかりエネルギーを割かずに、長所を伸ばすことつまり揚長に重きを置けとも解釈できる。
人間は成功することも失敗することもあるだろう。

失敗ばかりあげつらうのではなく成功のほうに着目し、これを伸ばせということだ。
しかし、この揚長避短は個人レベルで徹底するのはかなり難しい。

人は社会的な生き物であり、個人で生きているわけではないからだ。
小学生は小学校という社会に属しているし、大学生なら大学、社会人なら会社や役所その他の仕事場という社会に属している。

こうした組織自体が揚長避短を理解していなければその実行は難しいのだ。
もしあなたが、会社の社長や部長あるいは組織の会長や何でも良い、何らかの組織のボスであれば、この揚長避短という考えを人物評価の基準の一つとして採用することを勧める。

私はもちろん今まで実行してきたつもりだが、これからはより明示的に心がけようと思っている。

長所を伸ばす、あるいは長所をより積極的に評価する組織というのは、そこに属する個人の気持ちを明るくする。
成果の積極的評価を主体とする組織は減点主義を主体とする組織よりダイナミズムが生まれ、エネルギッシュになる。

失敗はもちろん失敗として正当に評価(受罰)されても、挽回のチャンスがあるということが大切なのだ。
また、賞罰に関してその公平性にあまりのエネルギーを割くのもぜひ止めて欲しい。

現在の日本社会はあまりにこの公平性にこだわりすぎて社会の活力を無くしている。
小学校の運動会で一緒に手をつないでかけっこをして全員一等賞にするなんていう馬鹿のようなことをしている。

ボスは部下の長所を積極的に評価しなければならない。
しかし長所をより積極的に評価するということは、評価された者と評価されない者ができることであり、人間がやることであるので多くの評価の中には公平性に欠けるケースがでてくる。

もちろんその公平性や正当性に関しては明確な哲学というかビジョンが必要であり、それを公言していなければならないが、神でもないかぎり完璧は不可能である。
しかし、大事なことは完璧さではなく実行することである。

評価から逃げるトップが多すぎる。
評価をいやがるトップは博愛主義者だからではない。

非難を恐れる臆病者というのがその実態である。
評価を放棄できない場合の次の逃げが減点主義なのだ。

減点主義というのは悪い評価の原因を本人の失敗に全て帰することで本人の自己責任という形をとり、評価者を無傷にする制度だ。
一方評価されるほうは常に横並びの仲間が失敗で脱落するのを待つのみという形にならざるを得ない。

こんなシステムで本質的かつダイナミックな向上心が育つはずがない。
今、教育の現場では子供の無気力ということが問題になっている。

問題は子供にあるのではない。
まず教師が問題である。

しかし、その教師は「無事」こそ最良という社会によって好むと好まざるにかかわらずがんじがらめにされている。
教師をそうした状況に追い込んでいるのは直接には親たちである。

その親たちは、「無事」という砦の中から「自己主張」という武器をふりかざすことが民主主義だとかん違いしている社会によって教育されてきたのである。
そして、その社会をブヨブヨに醸成しているのはこうしたシステムで次々と大人になっている子供たちである。

この連鎖を断ち切るのは、子供たちにはできない。
やはり指導的な立場にある大人が自覚を持たなければならない。

揚長避短。
この言葉、指導者的な立場にある人は一度考えてみて欲しい。

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