ヒット カウンタ

四つの視点

人生はどうあがいても数十年、100年を超えることはまれである。
どうせいつかは死ぬのだから努力しても無駄な事だ、といった厭世的な事を言う人がいる。

たしかに人の命は短いのだが、どうせ生きるなら有意義に生きたいと考えるのは自然な事だ。
厭世的な意見の多くは、何かの不満の裏返し、もっと直接的に言えばダメな自分への言い訳を一般論にしただけのものが多い。

世には様々な思想、哲学、宗教が昔からある。
それぞれの世界は深遠で素人の部外者がこれらの是非を軽々に論ずることは勇み足になる事が多い。

昔の賢人たちが思慮に思慮を重ね長年の歴史のフィルターをかいくぐって現在に生き続けている多くの思想群。
我々はただ畏敬の念を持ってこれらに接する事が大切なのかもしれない。

しかし、本当にそうであろうか。
実は一見哲学的な高尚な理論も一皮むけば単なる自己弁護であったり、負け惜しみであることも多い。

失恋したものは哲学者になるという。
古今東西の名著やセオリーは失恋をバックにしたものは多い。
哲学は敗者の繰言ととらえる事もできる。

また現代に目を転ずると、世にいうアイドルとか「〜様」と呼ばれるスターは、一人に対して何万(億)人ものファンがいる。
殆どのファンは擬似恋愛感情を持っていると思われるが、これが成就できる人は限りなくゼロに近い。

これほどの極端な例を出さずとも、殆どの片思いは失敗するのが常なので、世の中には哲学者があふれている事になる。
したがって深遠な理論はそれを更に進化させる後継者たちには不足しないという構造が成り立っているのである。

恋愛だけではない。自分と対抗する力に屈した経験のある者は、それに立ち向かおうと思うものより、逃げる者の方が圧倒的に多数を占める。
(どちらが良いかを論じているのではない)
逃げた者は、それを素直に敗北と認めることは苦痛なので、これを正当化する理論を考える。あるいはそうした理論を探す。
自分と対抗する力を"暴力"と捉える事で逃げた自分を合理化するのである。

”話し合い絶対論”や”平和主義”の主張の中にはそういう臭いのするものが少なくない。
正々堂々と正面から対決することから逃げたいというずるい考えが見え隠れするのだ。

もちろん私は世の中の全ての深遠なる哲学が失恋や敗北の言い訳であるといった主張をするものではない。
ただ、人間というものは弱い存在であって、しかもその弱さを認めたがらない動物であると言いたい。

本当は弱いのに弱くないと思うためには、かなりの理論武装が必要になる。
それが、こうした哲学を進化(?)させた原動力の一つになっている事は間違いないと思う。

一方武道とは、こうした類の哲学(?)と違ってそもそも人間の弱さを認めるところから出発している。
弱いから強くなろうと思うのであり、そのために鍛錬するのである。

もし、人間が最初から強かったら武道そのものが存在していなかったであろう。
武道の鍛錬を通じ、強者とまで言わなくても、少なくとも弱者ではないと自覚を持ちはじめると、自分が本当の弱者であった頃の考えが霧が晴れるような形で見えてくるものだ。

他人や社会にしたり顔でしていた批判や批評の議論が実は自分を正当化するための卑小な言い訳であったり合理化の一手段にすぎなかった事が。
一方弱者を相対的に見る目ができてくると、中途半端な弱者であった自分などとは比べ物にならない位の深刻な弱者の存在も演繹的に理解できてくる。

自分の立場を相対化することで、両方向の立場を柔軟に想像することが可能になってくるのだ。
逆説的ではあるが、強くなる事で弱者を理解できるようになる。

これが武道を実践していく最大の効用ではないかと思う。
つまり、もともと弱者である人間は、弱者から弱者を見る視点は持っている。
もちろん弱者から強者を見る視点もだ。
これを仮に「弱者の二視点」とよぼう。

しかし強者にならなければ、強者から強者を見る視点と強者から弱者を見るこ「強者のニ視点」は体験する事は出来ない。
強者になったものは「弱者の二視点」に加えて「強者のニ視点」つまり全ての視点を体験できたことになる。しかも全てより深く見えるようになる。

私はどんな体験も人生で無駄になる体験はないと思っている。
しかし、人生は最初に述べたように有限である。

しかも、武道を体験しなければ普通の人は肉体的な強者の立場に立てることはない。
人生の中で一度は強者の立場になってみる事は、この立場が好きであろうとなかろうと決して無駄にはならないのだ。

私は、ガンジーのような無抵抗主義は好きではないが、もしある程度の武道の経験を積み、決して弱者ではないという立場に一旦立った者が、その力の使用に対して無条件で反対すると主張するなら、その考えをあらためて尋ねて見たいと思う。つまり考える価値があると思う。

武道の中でもとりわけ空手は、道具を一切使わず頼る物はおのれの肉体のみである。
それだけにその技術を獲得した者が得る自信はより本能に訴えかける原始的なもので喜びも大きい。
(ピストルを持てば素手の人間に対しては無敵になれるが、これは本能に訴えかける自信とは成り得ない)
そして、その道に入ったならば、それをやった者とやらない者の差がこれほど大きく開く分野は他にはあまりない。

空手は、何歳から初めても確実に進歩を実感できるところがまた素晴らしい。
自分の全ての人生を「弱者の二視点」のみで生きていくのと、どこかの時点で「全ての四視点」を獲得して生きていくのはどちらが有意義であろうか。
私は論を待たないと思う。

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