ヒット カウンター

若者に告ぐその3(京都の思い出)


霊鑑寺での怖い体験の話は、おいといて、次の下宿先の話をしよう。
次の下宿は、霊鑑寺のすぐそばにあったお好み焼き屋さんの三谷さんの2階である。

私は自炊が苦手で、また経済的にも楽ではなかったのでなんとかまかない付で安い下宿はないかと探していたのである。

その条件にぴったりの下宿先が三谷さんの下宿だった。
ここの条件はかなりユニークで、大変面白いシステムだった。

私は、ここで今考える大きな人生上の勉強をいくつもさせられたのである。
その一つは、生きた経済である。

経済などというと大げさであるが、当時の私(高校出たばかりの若者の大半は今でも似たようなものと思う)の世間知らずは並外れており、下宿代とか食費とか光熱費、また学費その他もろもろの出費に関する知識が皆無だったのだ。

もちろん当時は自意識としてはそんな経済音痴である自覚は当然ない。
当たり前だ、自覚があれば既に経済音痴ではないからだ。

知識がないということの恐ろしさ、これがこれから先私の周りで次々と起こる大事件の原因を探っていくと分かる。
まず、私は数ヶ月居候させて頂いた霊鑑寺に下宿代を一切払っていない。

もしかしたら津末が払っていたのかもしれない。
でも多分彼もそこまで気を回してはいなかったのではなかろうか。

いや、もしかしたら払っていたのかな?
つまり今でも思い出せないくらい関心がなかったのだ。

このように周りに多大な迷惑をかけながら本人には自覚が全く無い。
これが、全ての事件の元凶であることが分かったのは、社会人になり随分たってからのことだったのである。

そうした私の無知を少しずつ矯正させてくれたのが三谷さんの下宿システムだ。
このシステムを仮に三谷システムと命名しておこう。

私の部屋は2階の4畳半。
この部屋は4つ5つあった下宿部屋の中で最低の部屋で、まず西向きであり、しかも窓が無い。
いや無いことはないのだが、手も届かないような高いところに便所の窓くらいの小さなやつが一つあるだけで、背伸びして外を覗くと霊鑑寺の門が見えるだけだった。

その他大文字焼きの端っこが見えたかもしれない。
しかし、下宿代は安かった。月4000円位だったと思う。

三谷システムのユニークな点は、食事代が日払いの現金決済だったことだ。
食事は三谷さんの家族と一緒だった。

おかみさんと市役所に勤める私よりだいぶ年上の息子さん、それと私と同世代の娘さんだ。
後、京大と同志社の学生、私と同じ浪人生らが主な住人だった。

同志社の学生は居合をやっており、部屋に刀がおいてあった。
ここには、もう一人刀を持っている住人がいて、やがてその人と私の間で事件で起こることになるのだが、最初はそんなこと想像すらしてなかった。

話は三谷システムに戻るが、食事の現金決済の徹底さは、何と、家族も下宿人も同じシステムで行われていたことだ。
家族といっても、子供たちも既に社会人になっていたので、それぞれ収入があり、会計は独立していたのであろう。

例えば、食事中に味噌汁をおかわりしたいとする。
「味噌汁なんぼ」「50円や」
こうしたやりとりが茶の間でコタツに入ってテレビみながら粛々と進んでいくのである。

私は例によって金の問題に疎かったので、金がなくなると、悪気も無く気楽に「おばちゃん、今日俺金がないんや」ってな具合に飯を食った後平然と言い放つことも少なくなかった。

おかみさんは、結構厳しく、「じゃ今日はいいわ」なんて決して言わなかった。
借金は店の手伝いと引き換えに決済させられることが多かった。

おかみさんは常にぼやいていた。
良い人だったが、私は毎日なんかで文句を言われていた。

京都学院という予備校が私や安部、津末が通っていた学校だった。
この予備校はちょうど新校舎が完成したばかりだった。

たまたま、仮事務所で入学手続きをとったとき、学院長と知り合いになった。
「お前たちはどこから来たのか」
「九州です」
「そうかそれは大変だな、下宿はどうしてる、勉強机なんかあるのか」
「いえありません」
「じゃ、ここで使っている事務机をお前たちにやるから適当なものを持っていけ」

じゃお言葉に甘えてというわけで、学院長がいないときが学院長が使っている一番りっぱそうなやつをかってに頂いた。
私と安部は木田さんからリヤカーを借りてきて机を運んだのだ(まだ木田さんの下宿のとき)
(この机は後に東京理科大学に入学したとき、はるばる京都から東京まで運んだのである。いっしょに空手をやっていたアメリカ人のダニエルの車で)

京都学院では入学と同時にすでに古株のごとくふるまう我々であった。
物怖じしない性格と多少の空手を背景にした傍若無人の振る舞いで、近所の悪がきどもにはすぐ目をつけられる羽目になった。

我々の世代は(全てではないと思うが)若い頃、何か多少悪ぶるのがカッコいい、といった風潮があった。
いわゆる偽悪趣味である。

ご他聞にもれず我々も所詮空元気の虚勢ではあったが、常に肩で風を切るような態度を敢えてとって自己満足していたのである。
居合をやっている同志社の学生からは、だいぶ後になって、「なんか怖い感じがして近づけなかった」というような話を聞いた。

こうした話を聞いたときがっかりするより、「よしよし作戦どおりだ」といううれしさのほうが強かったのであるからあきれたものである。

私は、近所の悪がきどもの兄貴分のような存在になっていた。
そこで、最初の事件が起こったのである。

三谷さんの下宿にはもう一人私にとって重要な人がいた。
それは出村さんという植木職人だった。

まだ若くて独身だった出村さんは、ちゃきちゃきの東京弁をしゃべり、威勢が良く、喧嘩ぱやい江戸っ子だった。
彼は、三谷さんの下宿では一番の古株で、部屋は一階のちょうど私の部屋の真下だった。

この真下というのが私にとっても彼にとっても悲劇のはじまりだった。
私は昔から騒音に対しては気にならないほうだった。

この気にならないというのはこちらが被害をうける場合は問題は起こらないが、こちらが加害者である場合は問題が起きる可能性が高くなる。

もうお気づきであろう。
もし,私の部屋と彼の部屋が上下逆だったら、この事件は起きなかったのだ。

後で知ったことだが、私が下宿をはじめたその日から出村さんは頭にきていたらしいのだ。

彼のことば

「毎日下駄でガランガランとうるさい音で示威的に歩き回る」
「玄関をわざとビシャンと大きな音を出して閉める」
「階段をわざとドスドスと音を出して歩く」
「朝早いので早めに寝ると必ず深夜上から大声を出したり仲間と酒飲んで騒ぐ」
「これらを毎日続ける」
「明らかに俺を挑発し喧嘩を売っている」

しかし、これは後から聞いてやっと理解できた話。
私には、出村さんに対する悪意は全く無かった。

ある日彼は日本刀を持って私の部屋のドアを蹴破ったのである。
今日まで我慢に我慢を重ねてきたが、とうとう限界にきた、ということだったのだ。

一方、私は寝耳に水である。
真っ赤な顔で日本刀を持ち、私を睨み付ける出村さん。

きょとんとして彼を見上げる私。
一瞬の静寂が二人の間に漂う。

彼が興奮を抑えきれないような口調で話始めた。

出村「おまえ,ここらではちょっとした顔らしいな!!」
出村「しかし俺に何のうらみがあって喧嘩を売る!!」

私「・・・・・・・・・・・・」(事態を理解できていない)

出村「何が目的で毎日大きな音で俺を挑発する!!」

私「???????」(まだ分からない)
出村「俺はお前なんかぜんぜん怖くないぞ、いつでもかかってこい、ぶった切ってやる」

私「????????それ、本物の日本刀?」
出村「当たり前だ」

私「ちょっと見せて」
出村「何ダトー!! テメー」

世間知らずの怖さというものはこんな感じなのだ。
その時点で私と彼はまったく異なった認識の世界にいて完全にリズムが違っていた。

私はそのまま彼に近づいて日本刀を見せてくれと言い何と刀を受け取ったのである。
そして、日本刀を握った私と丸腰の彼がそこにいた。

私は刀を抜いた。
刀はずっしりと重かった。

振り回してみようとゆっくり振り上げたが天井にぶつかりそうなので途中で止めた。
「バカヤロー、危ネージャネーカ、振り回すなよ」と出村さん。

私は刀を出村さんに返した。
「すごい刀ですね、いや本当にすばらしい」

出村さんは私に敵意が全く無いことにやっと気が付き、静かにしゃべりはじめた。
毎日、どれだけ頭にきていたか、何回やさしく注意したのを無視されたか。

私もやっと思い当たることがあったことを思い出した。
そう言えば、ニコニコしながら階段の音がちょっとウルサイねとか言われたことがあったような気がした。

しかし、俺と話をしたいのかなこの人は、くらいに脳天気に思っていたのである。
私はもう少しで殺されかかり、やっと事態を少しだけ理解したのであった。
私はそれから、階段の上り降りは随分神経を使うようになった。但し主観的には。

ずっと後出村さんと親しくなってから、聞いたのであるが、あの日以降も私の騒音はちっとも減らなかったそうである。

私が、いかに傍若無人だったかは、この事件をきっかけに出村さんと親しくなったことをいいことに、彼の車(仕事用のトラック)をちょくちょく借りるようになったことである。

車というのは、今も昔も若者のあこがれの的だ。
出村さんの車はトラックだったけどそれでも、当時の私にとってはポルシェのスポーツカーにも匹敵するような魅力があった。

もちろん彼の許可をもらって運転するのであるが、居ないときは勝手に乗っていたのである。
そして借り賃はおろかガソリン代すら払った事は一度もないのである。

おそらく大人である彼は私の行動は全て知っていたはずだ。
未熟な一人のガキのイタズラと思って見逃してくれていたのだと思う。

若者は常に自分は想像を絶する世間知らずであると言うことを自覚すること。
自覚が無く、運が悪いと命を無くす事だってありうる。

世間知らずということに関しては、どんなに謙虚になっても謙虚になりすぎる事はないというのが元若者である私の偽らざる本音である。

しかし、この出村さん事件のあと、またとんでもない事態が発生する。

つづく

トップページへ