ヒット カウンタ

強いお父さんでいるために


昔、仕事の関係で、それほど親しくはないプロジェクトの関係者数人で居酒屋で飲んでいる時のことです。
そのうちの一人がこんな話をしました。

「この前家族で旅行しているとき電車の中でちょっと席取りでもめちゃってさ。息子が先に乗って家族分の席を確保したんだけど、すぐ後で乗ってきたヤクザみたいなグループが子供を押しのけて横取りしたってわけなのよ。子供は相手がわからないから、結構口で抵抗していた時、俺がそこに登場したわけよ。イヤーまいったね。相手はヤクザだぜ。オレ、すぐすみませんって謝って、子供にも謝らせたわけ。だってそうするしかナイジャン。相手が相手だし。」

「その後、子供の態度が変わっちゃってさ、お父さんなんであんな奴らに謝るんだよ。悪いのはあいつらの方なんだよ、って。そりゃそうだけど、だってあんなとき、あいつらと事構えたら後が大変だよな。その場ではたとえ勝ってもだよ。」

彼は、そのプロジェクトチームでは若いプログラマーのサブリーダー的な立場でした。
彼は部下の女子社員をどういうわけか全て君付けで呼びます。

まあ、それはどうでも良いのですが、私はもう20年くらい前のこの話をとてもよく覚えています。
この手の話は疑わしいところが大体2箇所あります。

一つは、最後の「あいつらと事構えたら後が大変だよな。その場ではたとえ勝ってもだよ」という点です。
本当にやれば勝てるかもしれないけど、あとあと面倒だからやめた、という趣旨です。

彼は、見るからに弱そうで、とても喧嘩なんかできそうではないのですが、人は見かけによらないところもあるので、これは不問にしておきましょう。

もう一つは「相手はヤクザ」という設定です。
名刺交換をしたわけでも、互いに自己紹介しあったわけでもないのです。

本当にヤクザだったのでしょうか。
ヤクザというのは一般的にはいわゆる暴力団員のことを指します。

暴力団ではなくとも、何となく正業以外の特殊な職業関係者といったニュアンスです。
こういった人たちは、普通休日の日にサラリーマンの家族連れでごった返す行楽地向けの満員電車なんかにはあまり乗らないものです。

でも、中には家族サービスのため日曜日に電車に乗ってディズニーランドへ行くヤクザの方がいるかもしれませんので、これも不問にしておきましょう。

そこで、彼が取った態度は正しいのでしょうか。
彼の言っていることが全て本当ならこれは正しいです。

彼の行動に間違いはありません。
もし、彼がボブサップのように強くても、相手は世界を又にかけるマフィアの団体かもしれないのです。

たかが、電車の席くらいで事を構えるのはどう考えても得策ではありません。
謝ってすむ事なら謝れば良いと思います。

これでこの話はおしまいです。
という結論を出すためにこんな昔話を持ち出したわけではありません。

どうしてもひっかかるのが、「お父さんなんであんな奴らにあやまるんだよ」というフレーズです。
子供というのは、たとえ小学生でも、結構恐い人には敏感です。

学校でもやさしい女の先生には、結構口答えしたり、ふざけた態度をとっても、恐い先生の前ではおとなしくしているものです。

「あんなやつ」という内容はもしかしたら、「あんなヤクザのような恐い人」という意味ではなく、「子供でも馬鹿にしたくなるようなモヤシのような連中でしかも、相手が子供だと思って横車を押してきた連中」という意味だったのかもしれません。

お父さんが、本当のヤクザのようなやつに、家族を守るために謝ったのなら、おそらく子供にも理解できるような気がします。
そうではなく、大人が相手なら吹けば飛ぶようなチンピラの横車に、お父さんが来るまで、必死に抵抗していたのに、やっと現れたお父さんは、こいつらをやっつけてくれるどころか猫ににらまれた鼠のように小さくなってペコペコ謝りだした。そしてあらんことか自分の頭まで抑えてこのチンピラに謝ることを強要した。

とこう考えるとこの話はスムーズに理解できてくるのです。
彼が女子社員を君づけで呼んでいるからこう想像したわけではありません。
女子社員を君付けで呼んでいる立派な人も勿論います。

人間は弱い生き物です。
でも、これを認めることは結構つらいのです。

大抵の人は素直には認めません。
他人に対してではなく、自分に対して認めたくないと気持ちが強いのです。

この手の話の疑わしい2箇所というのは、この自分の弱さを認めたくないという気持ちが作り出すものだと思うのです。

それは、一つは相手がかならず強い存在であるということ。
もう一つは勝てる相手だけど自分は様々な理由で勝負を避けた、という筋書きです。

ですから、こういう話にやくざを持ち出すのは大変都合が良いのです。
相手は強い、しかも正義は自分にある、そしてあとあとのことを考えてあえて謝った。

こういう筋書きにすることで、自分の弱さを隠すことができるのです。
相手が仮にちょっとつっぱった中学生程度だったら自分の弱さがもろに露呈してしまいますからね。

小さい子供にとってはお父さんはスーパーマンなのです。
子供は自分自身は広い荒野に一匹で放り出された子羊のように弱くあやふやでたよりない存在であるということを本能的に知っています。

子供は放り出され、捨てられ、無視され、裏切られることを何より恐れるのです。
母親はやさしさの象徴ですが父親は強さの象徴です。

辛いときはお母さんの懐を思い、恐いときはお父さんの強さで力づけられます。
お父さんは子供にとってスーパーマンなのです。

子供にとってお父さんは強くなくてはいけないのです。
弱いお父さんはお父さん失格です。

弱いお父さんは強くならねばなりません。
強くなるための第一歩は弱いということを認めることです。

弱いと認めるからこそ、努力して強くなりたいと思い、それを実行できるのです。
人間は努力すれば肉体的にも精神的にも必ず強くなれます。

スーパーマン程強くなるのは無理かもしれませんが、少なくとも、子供から見てスーパーマンのようになれることは間違いありません。

しかし子供が成長するにしたがって、スーパーマンもいろいろ条件付になってくることはしかたがありません。
やがてこの強いスーパーマンも実は(人間的には)弱い存在なのだ、自分もそうであるように、と子供も悟る時が来るでしょう。

それが男にとっての子育てが終わった時であり、息子が一緒に酒を飲めるパートナーになった時だと思います。

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