ヒット カウンタ

伝えることの難しさ


最近、技や技術の指導をしていて思うことがある。
自分では分かっていることを上手く説明することの難しさだ。

基本的な突きや蹴りの説明はそんなに難しくないのだが、組手の中での動きとなると簡単にはいかない。
とくに防御のテクニックとなると大変だ。

ただ単に受けるだけの動作ではなく、相手の威力を殺し、あるいはタイミングをずらすといった事、あるいはフルコンタクトの場合、効かない攻撃は敢えて打たせて、反撃する、つまり肉を切らせて骨を断つといった方法がある。

こういった技術は、言葉でそのノウハウを説明するのが大変難しい。
実際にやってみせようと思っても、教える側がその動作を合理的に説明できる形で認識できていな場合がある。

中途半端な説明をするとかえって本質をはずす事もある。
結局は自分自身が人に説明できるほどにはその技術を分析的には理解しておらず、あらためてやってみせようと思っても、実戦的な流れの中でしか再現できない事が多いという事も原因の一つだろう。

メールで時々かなりの上級者であると思われる方から、ご質問やご意見を伺うことがある。
自分の経験に照らして思い当たる節が合った時は何らかのアドバイスなり私なりの意見を差し上げたいと思っても、これを言葉で表現することがとても難しい。

表現することは難しいのだが実際に伝えたい実体は厳然としてそこに存在する。
これを何とか、言葉にしたり、動作を分解して再現性のある手順として形にしたいという思いが強烈にある。

私が現在実行している方法は、伝えたい技術をまず、頭の中で映像として再現する努力だ。
自分が行っている動作を、イメージとして完全に頭の中でシミュレートできているかということをチェックポイントとしている。

例えば、私が接近戦で使う簡単なコンビネーションの一つに寸止のアゴ打ちから中段の正拳をフェイントにして最終的には鎖骨打ちでフィニッシュを狙うという戦法がある。
この攻撃は相手が慣れてしまうと簡単には決まらないが、初めての対戦者には面白いように決まる。

この例は単なる一例で、こういったコンビネーションの幾つかを完全に使いこなせる形で身につけておくということが実際の組手で勝ちを収めるための有力な武器になる。

こういった連続技は、こうして言葉にしても、そのエッセンスは殆ど伝わらない。
伝わるような人は既にそうした技を自分の物にしているレベルの人で、本当に伝えたい初心者には伝わらないのである。

伝えるためには、それをまず実際に再現できなければならない。
そのためには、その映像を客観的にイメージできるということが大切だ。

ただやれるだけではだめだ。
頭の中でスローモーションの映像が再現できる必要がある。

そしてその映像を眺める別の自分という形で認識されていなければならない。
これが出来て初めて、相手に技を教えたり伝えたりすることができる。

それでも、これはまだ最低限の条件にしかすぎない。
客観的な映像を頭の中で組み立てられて、それによってできる事は、やらせてみた相手の動作に対して、良いか悪いかを判定することだけだからだ。

「その動きは違う」「そんな打ち方ではない」「タイミングが違う」といった事は言えるだろう。
あるいは「そうだ!その通りだ」とも言える。

要するに相手が出来た時は出来た、出来なかったときは出来なかったと言えるにすぎない。
これでは技術そのものを伝えることはできない。

では実際にやって見せればよいか。
やって見せるだけでも伝えることはできない。

ピアノの名手が難曲をさらりと弾いて見せても、それを見せられた生徒が即できるわけではない。
どうやればそういう風に弾けるのかというハウツーは、完成品を見ただけでは理解できないからだ。

出来る技術と教える技術は違う。
「名選手必ずしも名監督にはなれず」という言葉の通りだ。

実際に出来なければ(あるいは出来た経験がなければ)話にならないのだが、出来さえすれば伝えられるという考えは間違いだ。
伝えるべきものを映像として再現でき、その映像を分解でき、分解した最小単位を静止画像のように捉えることができ、それを客観的に説明できることが必要だ。

その説明は動作の再現性を得られる十分条件を満たしていなければならない。

時代劇や剣豪小説なんかで武芸の秘伝を記した「巻物」が登場することがある。
この巻物が絵巻物であれば、そこには映像(静止画)とその説明が記載されているはずだ。

秘伝に属する高度な技をこうした絵巻物で動作の再現性を得られるほど十分条件を満たした物が実際にあるのだろうか。
私は正直これは難しいと思う。

実際に有るとすれば、それは道場で体で覚える事を前提として、既にかなりのレベルで体得した上級者に対して、備忘録的な役割でコツや要点をまとめた物、あるいは様式を文書化したものが大部分ではないだろうか。

しかし、こういった物があったり、小説で語られたりするということ自体、技術やノウハウを何とか後に続く者に残したいという強い要望とそれを実現しようとした努力が昔からあったという証拠ではある。

私は現在、今の時代だからこそできる方法でこの「伝えることの難しさ」にチャレンジしてみようという企みを実は持っている。

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