敵を知り己を知れば

2014/01/11


敵を知り己を知れば百戦殆うからず
これは孫子の言葉だ。

英訳すれば Know yourself as well as your enemy.
戦いに勝つための方程式として誰もが知っている有名な格言だが、これは大変難しい。

敵を知るという事と己を知るということは次元の異なる視点だからだ。
敵を知るというのは極めて実証的、プラグマティックな作業だ。

素手の個人戦なら、相手がプロの選手であったり有名な格闘家であればある程度のデータは公表されている。
また、空手や柔道なら経歴や段位などでおおよその推定はできる。

一方己の方はどうだろう。
本来は己のデータは本人が一番よく知る立場にある。

たしかにプラグマティックにはそうであるのだが、人間の心はやっかいなものであまりに知りすぎていることがかえって認識を狂わせることがある。
自分に関しては願望や欲望、間違った優越感や劣等感その他多くのバイアスがかかって正しい自分の力をなかなか認識できない。

例えば、大きな体を持ち、大抵の試合は自分の体力で相手を圧倒して倒せるといった格闘家としては恵まれた資質の持ち主であっても彼の心の中の理想は牛若丸のように細身で一見非力に見える外観で圧倒的な技術やスピードで勝つ姿かもしれない。

こうした人は弁慶のような自分ではなく牛若丸のような自分が理想であり、普段の稽古もそうした理想に向かって励んでいるかもしれない。
そして、その「そうでありたい」という願望が「そうなのだ」という認識へ傾かせているかもしれない。

私は子供の頃多くの喧嘩をしてきた。
その中にはひどい目にあったり、逆に相手をひどい目に合わせたものもある。

そうした昔話を会員にすることもあるが、同じ話を何度も聞いた事のある会員は話が細部にわたって違う感想を持つ事もあるのではないだろうか。
この話は一度夏の合宿で話した事もある。

相手も強くて運良く勝った喧嘩が何度もあった。
その喧嘩の前後の心理の描写は私が酒が入って威勢の良い時の話とそうでない時の話は内容が随分違う。

実際一つ間違えれば殺されるかもしれないといった死の恐怖に怯えた喧嘩も何度かあった。
いつも戦おうか逃げようか迷っていた。

ボコボコにやられた後、
命を懸けて復讐したこともある。

勝った時も心理的にはいつも必死だった。
相手の弱い強いは後でわかることであり、始まる前は極限の緊張感の中にいた。

大学生の時チンピラの集団と喧嘩した時もそうだった。
「しまった」と後悔しながら始めてしまった。

死ぬかもしれないと思った。
運よく勝った後、どう後始末すれば良いのか分からなかった。

自分の素性を調べられて仕返しされると思ったからだ。
匿名のまま逃げるのが良いのか、知り合いの警察関係者に連絡するのが良いのか、空手仲間に連絡するのが良いのか、堂々と自分を名乗り相手も知り、仲直りの儀式をするのか、脅すのか。

相手の車の車種や姿形、車に書かれた文字で敵の素性はある程度は想像できても、己が分からない。
己の実力や相手が自分を攻撃するとして感じているであろうリスクの重さがわからない。

もっとめんどうな集団が背後に居るかもしれない。
しかし相手にとっても私がどういう背景を持っ人間かはわからない。

本人はたかが一学生であっても仲間も知り合いもそれなりには居る。敵にとってもこの学生の人間関係や親や親戚の素性は未知数なのだ。
一番危険な一夜を何とか乗り切った後、私は信頼できる人を通じて警察の情報網で敵の概要を知る事ができた。

敵を知ることはでき、その信頼できる人に相談してその時できる対策は取ったけど己の立ち位置は漠然としていた。
だから自信と恐怖がしばらく交錯した。

又こうありたい自分と現実の自分の差も広がったり縮んだりした。
好戦的な気分の時は、どんな敵でも地獄の底まで叩き込もうという気迫に満ちる。

一方できれば無駄な争いは避けたいという気持ちで厭戦的になる事もある。
どちらの自分が本当の姿か判断は難しい。

現空研の会員から面白い本を借りた。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本だ。

木村政彦は戦前から戦後にかけての圧倒的な強さを誇った柔道家である。
恐らく史上最強の柔道家であろう。

グレーシー柔術の生みの親エリオグレーシーをブラジルで破ったのも彼である。
その彼が戦後プロレスの力道山との戦い敗れたのは有名な話だ。

その試合がガチであったのかどうかという事は何度も蒸し返されているが真相は明らかではない。
この本はそれを徹底的に検証している本だ。
私はこの本に書かれている事以外に聞いた事実もある。

この中で木村政彦が力道山との試合の内容をいろんな機会に語っているがその内容がいろいろ異なるとの指摘がある。
私も彼の著書や何かのインタピューの記事でそのブレを感じた事がある。

しかし、これは至極まっとうな事なのだ。
彼が嘘を言っているわけでは決してない。

過去の喧嘩の状況はいくら正確に語ろうとしてもできないのだ。
特に自分の気持ちや心理状態は何度考え直してもそのたびにぶれる。

客観的な敵のフィジカルな動きはビデオでもないかぎり自分の立場でのバイアスはかかるかもしれないが、わりと一定の記憶として思い出せるが、肝心の自分の事はその日の気分でずいぶん変わってしまうのだ。

私も自分の過去の喧嘩を語ったり文に書いたりしたものがあるが、今読み返してみるとどれも正確ではない。
同じ事件の事を違う時期に書いたものを読み返してみると随分ニュアンスに差がある。

どれもが真実でありどれもが嘘なのだ。
特に自分のその時の心理や心情を書いたものに真実との差を感ずるものが多い。

自分をカッコよく見せようという意識が働いたものはすぐ自分でも気が付くが、必要以上に弱気で書いたものもある。
自分そのものを自分以上でも自分以下でもないように表現することの難しさを感ずる。

己を何の虚飾もせず、必要以上の卑下もせず正確に自認することが如何に難しいかということだ。

「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉には敵を知る事と己を知る事に重みの差はない。
しかし英語の Know yourself as well as your enemy. は自分自身を知る事の方を重んじるニュアンスがある。

敵を知る事も当然難しいが己を知る事は更に難しい。
しかし常に己を知る努力は勝つためには怠ってはいけない。

他人の評価は少なくとも自分よりは客観的である可能性は高いが、その評価を直接聞いてもそのまま信ずるわけにはいかない。
なぜなら、その他人が自分に向けてどのくらい正直に話すかは別の力が働くからだ。

その他人も感じた事は正確で客観的であったとしても一旦口に出した途端それは人間関係のバイアスの中での発言になる。
善意であれ悪意であれ何等かの脚色が含まれるという意味では同じだ。

だから自分を知るには謙虚に他人の話を聞けば良いといった単純な図式にはならないのだ。
自分で自分を語っても他人から自分を語らせてもそれは良い意味でも悪い意味でも嘘が必ず含まれる。

己を知るということはこれほど大変な事なのだ。


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