ヒット カウンタ

楽しんできます


オリンピックが終わってしばらくたつが、日本の選手たちの言葉でよく耳にし、しかも私にとっていつもひっかかる言葉がある。
それは「楽しんできます」と言う言葉だ。

昔は「がんばってきます」というのが決り文句だった。
最近はこの「楽しむ」という言葉がはやっている。

この楽しむという言葉はそれ自体悪い意味もないし、スポーツに限らず武道やその他の芸術、学問全てに通ずるモチベーションの真髄であるとも思っている。
しかし、最近耳にするこの「楽しむ」という言葉はちょっとニュアンスが違う。

オリンピックの場合に限れば、この「楽しむ」という言葉の裏には「日本のため」とか「国の代表として」とか「選ばれた者の名誉にかけて」といった意味を排斥する心情を感ずる。
あるいは「勝負にはこだわらない」という意味を持たしているのかもしれない。

「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉に間違いはないが、これは参加する選手が口にしてもらっては困る。
この言葉は大会を主催する側が発すべき言葉である。あるいは代表選手を送ってそれを声援する者の言葉である。

もっと直接的に言えば、負けて帰ってくる選手に、ねぎらいの言葉として発するものである。
そして、その言葉にうそはない。

全力をつくし、努力し、がんばった選手はたとえ敗北しても大いなる意義はある。
それは選手自身にとっても、その選手を選び送った国民にとってもだ。

参加することに意義はあるのだ。
しかし、「楽しんできまーす」といって出発し、惨敗して帰ってきた選手が「楽しんできましたー」という言葉を発っしたら、我々は「君は参加したから意義はある」なんて口が裂けても言いたくない。

オリンピックは物見遊山ではない。
国が金を出し、強化選手を選定し、我々の代表として送り出しているのだ。

自費で出る市民マラソンなら「楽しむ」だけで大いに結構。
しかし、公費で出る以上国の代表という意識をしっかりと自覚してもらいたい。

選手が未熟でそうした意識を持っていなかったらコーチなり責任者がきっちりと教えるべきである。
じゃ「公費」でなく出場したばあいなら「楽しんで」いいのか。

そういうことではない。
例えばプロボクシングのタイトルマッチは民間のプロモータが行うものである。

これは興行であり、国対国の公式の試合でもなんでもない。
しかし、世界チャンピオンを争う試合が日本人対外国人であれば、我々はやはりこれを一種公式戦的な見方をするのが常であり、新聞などもそうしたニュアンスで伝える。

慣習的に行われる国旗掲揚と国家斉唱はいやがうえにもこうした雰囲気を盛り上げる。
そしてそれは決して不快なものではなく、良い意味で試合を面白くし、我々は単なる興行以上の意識と思い入れをもってその経過を見守ることになるのである。

オリンピックに限らず、このようなスポーツ大会は、なぜ成立するのか。
それは、観客が集まるからである。

観客は、そこに出場する選手に自分を投影し、自分の代理としてがんばっている選手と意識を共有することで興奮し声援するのである。
勝てばうれしいし、負ければ悔しくまた悲しいのは情としては当たり前のことである。

選手はこのように多くの声援する人たちの期待を一身に背負っているのである。
だからこそプレッシャーも感じ、その声援を重圧に思うこともある。

その重圧につぶされそうになっている選手をはげますのに「楽しんでこい」というのは送り出す方の思いやりである。
しかし、これを受けて「はい楽しんできます」は情けなくないか。

あるいは負けて帰国した選手が「ご期待に添うことができず申し訳ありませんでした」と言うのに対し「でも楽しめただろう」と声をかけることはやさしさでもあり、またウソでもない。
しかし、自分のほうから「楽しんできましたー」は本当にがっかりする。

と、ここまでは公式的見解。
じつは、
とここからが本題。

「楽しんできましたー」とにこにこして言っているやつ。
この言葉はウソである。

なにが負けて楽しいものか。
あるいは「楽しんできまーす」と本心から思っているのか。

そんなことあるわけないじゃないか。
過酷な選考会を勝ち残ってくるにはどれほどの努力したのか。

楽しむなんてレベルじゃオリンピックの選手どころかそこらの○○大会で入賞することさえできない。
本当は勝ちたいのだ。

そして負ければ悔しいのだ。
皆の期待にこたえたいのだ。

がんばりたいのだ。
しかし、これを素直に表現できない現代の風潮がある。

「国の名誉にかけて全力を尽くします」といったごく普通の世界的に普遍的なこの言葉が発せられない特殊な社会環境が今の日本にあるのだ。
マスコミからもたたかれず、責任もなく、また斜めに構える周りの輩にもクサイとかからかわれない便利な言葉、それがこの「楽しみます」なのだ。

誰かが使い、たちまちその便利さからあっというまに流行したはやり言葉なのだ。

本来オリンピックの原動力は名誉である。
それは参加する個人の名誉、選ばれる名誉、勝者にあたえられる名誉、代表者を出した国の名誉。

全ては名誉のために行われるのである。
なぜ、この名誉をすなおに表現しないのか。
あるいはできないのか。

名誉という言葉を出すと、すぐ古いとかダサイとかクサイなどと揶揄する風潮がある。
また、ある種のイデオロギーに結び付けてからんでくる輩がいる。

名誉というものはそんな皮相な主義主張で語られるべきものではない。
私は人間の行動原理は大きくわけると二つあると思っている。

それは「利益」と「名誉」だ。
「利益」は人間だけでなく生き物全ての生きるための根源的な行動原理だ。

勿論これを否定することはできない。
しかし、これはあまりにも当たり前の行動原理なのでわざわざ言うまでもないし、言うのはかえっていやなものだ。

しかし、これをわざという事によって自分のいやしい行動の免罪符を得ようとする風潮がある。
「自分に素直に生きる」なんて言葉がそれだ。

ふざけるんじゃない。
自堕落な生活や態度をこういった言葉でごまかしているだけじゃないか。

そして利益の中の自分の快楽の部分だけを取り出した言葉が「楽しみます」だ。
本来「楽しみ」とは個人の密かな感情であって、大声で皆にアピールするような性質のものではない。

聞かれた場合遠慮しながら言うような言葉なのだ。
昔毎朝道の掃除をしている感心な人がいた。

「毎朝、大変ですね。ご苦労さまです」と声をかけたことがある。
「いやいや、これは私の健康法であり楽しみなのですよ」
とその人は答えた。

この言葉におそらくウソはないであろう。
その人は本当に楽しいに違いない。

しかし、自分の快楽である「楽しさ」は本来ば秘めたるものなので、このように自分を誉められた場合「いやいや私はそんな立派な人間ではありません、自分の快楽のために行っているつまらない人間です」と言って謙遜されたのだと思う。

そこには「私の個人的な快楽でやっておりますので、手伝おうなどと気を遣って頂く必要はありません」という気配りもあるのだ。
つまり、「楽しさ」とは大威張りで言う言葉ではないのだ。

勿論受け取るほうはそれを文字通りは受け取らない。
「楽しさ」という言葉にウソはないであろうが、道の掃除を自己の快楽のみでやっているとは受け取らない。

普通の人なら嫌になる掃除を「楽しさ」という謙遜の言葉で言うことによって相手への心理的な負担を与えないようなやさしさを持った人なのだ。

「大変ですねーだとう、見りゃ分るだろう、ご苦労様なんて聞く暇あったら手伝えよベラボーめ」
なんて言ってくれればよいが、

「ありがとうございます。はい、毎日大変な苦労をしております。はい」
なんて言われた日には、手伝わないわけにいいかなくなってしまう。

楽しいからやるということは、自分の快楽でやっていることであり、別にあなたのためにやっているのではないですよ、ということだ。
だからこそ、こういうケースではこれが相手を思いやる謙遜の言葉になるのだ。

しかし我々が選び我々の代表として名誉をかけて戦うはずの選ばれし者が、自分の快楽のため、楽しいからやります、では情けなくなるのだ。
たのむから「楽しみます」だの「楽しいから」だのという言葉を軽々しく使わないでほしい。

「お前は空手をなぜその年まで続けているのか」だって?
「そりゃ楽しいからに決まっているだろ。ベラボーめ」

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