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貴乃花引退


横綱貴乃花関が引退した。
本人が決めたことであり、部外者の私が云々するのは僭越ではあるが、幾ばくかの思いがあるので披露しておこう。

まず、率直な感想は「残念」の一言である。
なぜ、残念なのか。

一つは、貴乃花の潜在的な力というか、相撲取りとしての可能性の多くがまだ残された形での引退だと感じたからだ。
勿論貴乃花が負っている怪我や数々の故障のそれが尋常なものではないことはある程度は理解しているつもりだ。

特に膝の故障は、私も昔大きな怪我をし、その回復に長期間を要したことがあるので、より現実感を持って考えることができる。
率直な私の感想は、「もっと十分な回復の時間を与えてやりたかった」
この一言である。

相撲は日本の国技であり、文化である。
したがって、様々な伝統やしきたり、慣習がそこに存在する。

これらのしきたりや慣習が、相撲を近代の悪い意味での合理性の洗礼から守り古来よりの相撲の伝統を守ってきたことは間違いない。

特に、横綱という存在に対しては、かくあらねばならないという横綱像が有形、無形を問わず醸成されており、一旦横綱になったものはそれに従わざるをえなくなっている。

特に引退に関してはその感を強くする。

もともと日本人は相撲にかきらず、引き際にこだわるところがある。
最も良しとするのは桜の花のように散ることである。

「死に場所を探す」という言葉がある。
昔から、武士や軍人は戦いの、それも負け戦になった場合自分の死にざまを意識する。

そこには、潔(いさぎよ)さへの傾倒というか美意識のようなものがあり、もちろん自発的な感情でもあるのだがある種伝統のようなものに縛られているという実態も否定できない。

「恥の文化」を背景とした様々な慣習やしきたりによって、皆の笑い者にならないように、といったプレッシャーが常に日本人にはつきまとう。

英雄達の最期、死に場所、死にざまは特に物語や伝説になった場合は、皆かっこよいものが多い。
こうした、かっこよい死にざまというのが一旦伝統といった衣をかぶるとこれが奇妙な義務のような形になってしまう。

英雄はこういう死に方をしなければならない。
横綱はこういう引退をしなければならない。

本来の英雄は、死にざまなど意識しなかったのではないか。
その場その場を全力で戦い、奮闘する。

どんな不利な条件や絶望的な戦況であっても、最期まで勝利をつかむ意欲で戦う。
そして、奮闘むなしく敗れた様を、後の者が語りついだものを「死にざま」と言ったのだと思う。

最初から死にざまを意識した戦いはそれ自体不純である。
鍋島藩の「葉隠れ」という武士道を語った書に武士の戦い方として「死に狂い」という言葉がある。

死に狂いとは、武士の戦い方を表現した言葉で、戦う時は気違いになって無分別に戦うべきであり、余計な分別はいらないといった教えである。

死にざまを考えることは、分別であり、死に狂いではない。
観客を意識した戦いであり、言葉を悪く使えば、「格好付け」である。

こうした死にざまが演出されるようになるのは、本人の問題ではなく、社会の要求がその原動力である。
大きく言えば文化ということになる。

私は貴乃花が死にざまを考えた相撲を取ったと主張しているのではない。
むしろ、貴乃花の生き方は、武士道的な「死に狂い」を志向していたように思う。

聞いた話ではあるが、父親のニ子山親方が引退を勧めに出向いたところ貴乃花は筋力トレーニングの最中だったという。

まさに「死に狂い」そのものではないか。
しかし、彼は父親の言葉にしたがったのであろう。

それは、父親の言葉というより社会の要求であり、文化の要求であったと思う。
貴乃花の引退会見の言葉は、大横綱にふさわしいすがすがしい言葉であった。

しかし、私は彼の言葉は彼自身の肉声というより彼の背景にある相撲文化が言わした言葉のように聞こえてしようがない。

相撲は文化ではあるが一方格闘技であり武道である。
国技として武道を象徴する存在であるならば、常に武道としての本質を貫いた存在であってほしい。

武道がお芝居などの芸能と決定的に違うのは、筋書きが無いということだ。
お芝居であれば、英雄はいつでも英雄として死ぬことができるのだけれど、武道はそうではない。

筋書きが無いということは、結末が常に社会が要求するような形にならない事を意味する。
つまり、常に格好良い結末とはかぎらないということだ。

このことを容認してこそ文化が武道精神を容認したと言える。
武道精神とは桜の花のように散ることではなく、むしろ死に狂いの方が本質に近い。

どんなに強い者でも、無様な最期を見せることもある。
しかし、懸命にベストを尽くす。我々はそこに感動するのである。

桜の花のように散ることは美しいことである。
しかし、それはあくまで結果である。

一所懸命でベストを尽くし、結果として散ったということならばそこに感動が生まれて当然である。
しかし最初から桜の花のように散る事を意識させたり、強要させるような社会や文化は不健全である。

私はここで、「死に狂い」を賞賛しているわけではない。
私は武道と言うものは「生きる」こと「生かす」ことが本質であると思うから。

葉隠れの「死に狂い」も良く読めば、それは死中に活を見つける手段であることがわかる。
死ぬ事と見つけることで自他を生かす道を見つけることができるという教えだと私は解釈している。

そういう意味で私は貴乃花の引退は残念である。
最も武道精神を体現した大横綱の相撲をもう見ることができないからである。

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