生涯最強を目指す

2013/05/18

現空研の空手は武道空手である。
武道空手とは、ルールのある競技で勝つことより実戦での有効性を追求する空手をいう。

 

実戦で勝つには強さが必要である。
強さには、それを語るスケールによって定義が変ってくる。

 

人生という長いスパンで考える強さと、目の前に迫っている危急に対する強さでは意味が随分異なる。
今日は、この後の方、つまり目の前に迫っている危急に対してどう処理していくかという極めて局所的、ミクロな意味での強さを考えてみたい。

 

分かりやすく言うといきなり理不尽な暴力を振るわれたような状況だ。
武道というより武術的な意味合いでの強さを考えるわけだ。

空手の普段の基本稽古や組手は直接的にはこうした武術的な強さを鍛えるために行っている。
突や蹴の基本稽古は、こうした基礎技術を覚え、洗練させ、そして一旦獲得した技術を忘れないため行っているのだ。

熱心な空手家はおそらく単純な中段突を一生の間には莫大な回数行うことになる。
毎日100本の中段突(大した量ではない)を一年続けたら36500回/年。
30年続けたら約100万回だ。

これだけの回数をこなしたら量は質に転嫁する。
なぜなら、この回数の中身は年齢的な変化も含めてあらゆる条件を網羅しているからだ。

体調の良い時、悪い時、精神的に高揚している時、またその逆の時。
筋肉痛や何等かの軽い障害が持っている時もあっただろう。

おそらく殆どの状況を網羅しているはずだ。
100万回というのはそれくらいの重さがある。

その全ての経験を蓄積したものが体に刷り込まれている。
仮に、筋力の絶対値が多少落ちても、それをはるかに凌駕する力を得ている。

世に名人、達人と呼ばれた人が歴史上存在する。
彼らは例外なく、不断の努力を積み重ねて一生を終えている。

ミケランジェリという有名なピアニストがいた。
ミスの無い完璧さでは恐らく史上トップのピアニストではないだろうか。

彼は物凄い稽古量で知られていた。
歴史的天才ピアニストのホロビッツとは好対照である。

演奏当日は最後の一分まで稽古を続け、気に要らなければ演奏をキャンセルしたという。
この話の真偽は確かめてないが、あり得たように思える。

彼の驚くべきミスタッチの少なさはこうした猛訓練の上になりっていたのだ。
そしてその能力は死ぬまで衰えていない。(あの天才ホロビッツの晩年は私はテレビで拝聴した。芸術的には素晴らしい演奏ではあったがミスタッチはビックリするくらい多かったというかハラハラさせられた)

空手とピアノは同列には論じられないが、ミスタッチは武道であれば死を意味する。
どんなに華麗な技を駆使できる天才であっても実戦ではミスタッチは許されない。

そういう意味で圧倒的な稽古を続けて最後まで完璧主義を貫いたミケランジェリに武人を感ずる。
ただノーミスだけでポイント勝ちを狙う凡庸な演奏ではなく鋭い達人の必殺の鋭気を感じさせる演奏をノーミスで行うのだ。

稽古量さえ豊富であれば誰でもミケランジェリに成れるわけでは勿論ない。
しかし、どれほど才能に恵まれていても稽古しなくては達人の境地に達し維持することはできない。

空手に話をもどそう。
単純な基本稽古を何十年も続ける意味を科学的、生理学的に考察してみたい。

私は今まで生きてきた間何回か入院の経験がある。
そのうち何回かは全くベッドから起きれない状況になった。

40才台の経験だが、私は腰を痛めた。
大学病院に入院し手術するかしないかの状況だった。

結果的にはしないで済んだのだが、2週間くらいベッドに縛り付けられたような状況だった。
経験ある方もおいでだろうが、これくらいの間でも寝ていると、起きる事ができなくなる。

起きてもまっすぐ立って歩けないのだ。
たかが二週間稽古をさぼっただけで、歩くという単純な技が使えなくなる。

これは何を意味するのか。
歩くということがそんなに高等な技術であるのか、あるいは人間の運動をつかさどるシステムが経年的に脆弱であるのか。

恐らくその両方だろう。
歩くためには極めて自由度の高いジョイント(関節)で数カ所(股関節、膝、足首等)連結された足という部品を二個使ってバランスを取りながら進まなければならない。

関係する動力源(筋肉)は多数あり、これを統括的に管理し、随意的、不随意的に動作させることは高度で複雑なシステムが存在することはわかっている。
単純な直立歩行でさえ、現在のコンピュータを使っても結構難しい。

単純な歩行は恐らく反射的、不随意的な運動と随意的な運動の複合システムだろう。
不随意的な運動はある意味極限まで洗練されており、疲労も少なく合理的なシステムとなっていると思う。

なぜなら、それは長い生命の何代にもわたる進化を経て獲得されたものだから。
一方随意的な運動は脳によってコントロールされるもので、その時の意思で動きが変る。

これは自由度は大きいが、システムとしての完成度は低いというより、その時々によって臨時のシステムが構築されているという考えも成り立つ。

稽古とは、もちろん意思で行うので殆どが随意運動であるが、何度も長い間同じ動作を続けることで、不随意的な運動に変えていくのではないかと考えられる。
稽古とは随意運動の不随意化ととらえる。

しかし、ピアノの演奏や空手の突などは、もともと随意運動を不随意運動に一部無理やり変えた物なのだから、稽古をやめると元の古巣の随意運動に戻ろうとする。
だから、突の威力は減るし、無理やり意思で動かすので疲れやすくなる。ピアノならミスタッチが増えるという事になる。

体が覚えるという言葉は、このような随意的な運動を不随意的な運動に変えることを言っているのかもしれない。
実際は体が覚えるのではなく、脳や脊髄反射の合理的な回路が作られるのだ。

もし、稽古がこうした合理的な回路を作るための手段であるならば、どうすれば効率的に作られるかというメカニズムを探求すれば良い。
私はその方法は、重要な動きに的を絞り、常に脳や神経を刺激するための外因を加えて、長期間同じ動作を長期間繰り返す事だと思っている。

しかし、これは簡単なようでなかなか難しい。
なぜなら人は単純作業を忌み嫌うという本能があるからだ。

特に、動作に意味を見いだせない時その苦痛は極限に達する。
昔、囚人の処罰として意味なく穴を掘らせ、次のその穴を埋める、という動作を繰り返させるというのを聞いたことがある。

囚人であっても、同じ穴を掘るということが、何等かの社会に役に立つ土木工事の一環であれば、その苦痛ははるかに小さいそうである。
人は無意味(と思えるよう)な動作はいやなのだ。

「単純な中段突の繰り返しなんて何の意味がある」と思ったらもうその稽古は苦痛以外の何者でもない。
子供がピアノの稽古をほとんど例外なく嫌がるのもこの単純動作の繰り返し稽古に原因がある。

大人はこの単純動作の繰り返しがどれほど大きな意味を持つのか説明すれば頭で理解できる。
子供ななかなか難しい。

しかし頭で理解してもそれはまだ最初の関門を通っただけだ。
モチベーションの維持は、それなりの工夫が必要だ。

人生における武道の意義を大きな目的として持っている人は大きなアドバンテージがある。
たとえそれが忠臣蔵の仇討のような反社会的な事であってもだ。

一般の社会人には普通そこまで強烈な目的意識はない。
普通の人はまずその単純さの中で日々のサプライズを感ずる努力をすることだ。

具体的には同じ突を出す時は必ず突を出して当たった時の状況をイメージする。
状況は頭の中で動画として動いていることが望ましい。

動画のカメラ位置も時々脳内で変えてみる。
私はよく鳥瞰的な位置取りをする。

勿論仮想の敵を作り、映画のシーンのような状況をイメージする。
これは、道場でも私が皆に良く言っているので会員の皆さんは思い当たるだろう。

拳が敵の体内にめり込む様子までイメージすることが大切だ。
ただ漫然と空を切る突きとはまるで違う実感を得ることができる。

まあ、コンピュータで言えばシミュレーションのようなものだ。
実際に組手の時にその感触を確かめ、脳内動画と異なっていれば修正する(パラメータを変える)

シミュレーション的に言えば、組手は実験であり、データ収集の手段であり、これで脳内シミュレーションの精度をあげて稽古プログラムを進化させる。

こういう意識を持てば、外観的には同じ単純動作を繰り返しているように見えても個人的には毎回異なった状況で実験を行っているようなものでありモチベーションの低下なんか起こりえない。

しかしそれでも人は飽きやすい。
残念だが事実だ。

たから世の中には達人は少ない。
あなたが達人になるかならないかはあなた自身に決定権があることを忘れないでほしい。

 

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