惻隠の情(そくいんのじょう)

2011/10/11


 

最近私の回りで起こる事やニュースなどで知った事件で共通なあるいやな感じがある。

いやよく考えると特に最近始まったわけではない。

 

かなり以前からある違和感が段々大きくなってきたというのが正解かもしれない。

一言で言えば「感情をさらす」気風というのだろうか。

 

テレビをつければいつもお笑い芸人(?)や存在意味不明のタレント(?)が、毒にも薬にもならない事でさわぎまくっている。

最近に目つくのが、相手の欠点や短所をことさら晒して笑いを取るというパターンだ。

 

身体的な特徴をあげつらったり、私生活の失敗などをおもしろおかしく(私はちっともおもしろくないが)ののしりあうシーンが多い。

最近買ったテレビは録画したものからコマーシャルを自動カットして再生してくれる機能がある。

 

これは大変便利で、うるさいコマーシャルが自動的に無くなるので、おかげテレビを見る時間が増えた。

しかし、それで浮上してきたのが先に述べた内容のくだらなさだ。

 

面白いところはほんのわずかで大半がくだらないものが実に多い。

こういうくだらないシーンを自動的にカットしてくれるテレビを作ったらきっと売れるぞ。

 

いや、売れないか。こういう番組が視聴率が取れるので増えているわけだから。

コマーシャルのほうはスポンサーがいるから民放は無料で放映できるわけだし、これを自動的にカットされたのではたまらないだろう、と思っていたら案の定次ぎの新機種からはこの機能は除外された。

 

何らかの抗議があったのかメーカーが自粛したのかは知らない。

私は運良く手に入れた。壊さないように長く使おう。 ここだけの話だが東芝のREGZA Z1だ。

 

オークションで買っても価値はあると思うぞ。おそらく二度と掲載されない機能だと思う。

 

くだらない番組は見なければ良いわけだが、特にこの番組とかタレントの誰それといったことではなく、全体的なトーンとして、いやなシーンやトークが散発的に現れるという状況は逃れるのは難しい。

 

そしてこれはタレントやお笑いの個人の問題というより、番組制作者やスポンサーの意向が大きく影を落としているのだ。

そしてこういう意思決定をするキーマンにしても彼の個人的な意向というより、視聴率を初めとするコマーシャルベースの手かせ足かせがこういう結果を作っていると見るのが妥当だ。

 

つまり、くだらないくだらないといっている視聴者、国民がくだらないという事になる。

私も含めてこういう事を言っていることが天に唾する行為か。

 

今日は多少唾を浴びることになるかもしれないがもう少し苦言を呈しておこう。

それは先ほど述べた他人の悪口をあからさまに言うことで笑いをとるタレントが増えたことと関連する。

 

これが一般社会でも限度を超えた形で横行している。

タレントの場合はそれでも計算されたものが多いのでそれなりのセーフティーネットが張られている。

 

つまり、生放送での失言などを除けばいくらでも編集、訂正が可能なのだ。

だから、その暴言は納得の上という事になる。(それでも私は嫌いだが)

 

今日の本題はタイトルにあるように「惻隠の情」だ。

その意味は一言で言えば「思いやり」もう少し噛み砕けば「相手の気持ちになって同情する心」とういことになる。

 

ちなみに「武士道」の著者新渡戸稲造は「惻隠の情」を「 feeling of distress」と訳している。

孟子は彼が説く人の道として最も大切な孔子の言う「仁」を噛み砕いて、他人の苦痛や不幸、苦しみを自分の身にふりかかったもののように同情したり共感する思いやりの心であると説いている。

 

惻隠の情は戦前の日本人なら、子供の頃からいろんな形で語られ、教えられ、絵本や物語でも様々な形で表現されて心にしみこんでいたはずである。

そのため、改まって「惻隠の情」などと大上段にふりかざして講義をされるということはあまり無かった。

 

少なくともまだ大人たちや教師が戦前生まれの時代はそうであった。

しかし、現在は藤原正彦氏のベストセラー「国家の品格」などで再浮上してきた言葉のように感じる。

 

国家の品格はすばらしいと言うより当然の事を当然に言っている本だと思うが、これをヒステリックにけなしたり、はたまた戦後主流となった「進歩的な考え」のなれの果てのような論理で一見シニカルに否定する輩は非常に多い。

 

戦後文化に関してはいずれ考察した事を述べるつもりだが、今日は深入りしない。

現在の日本の精神風土における自由主義や民主主義のはきちがえ、そして歪んだ教育の元、大量のバカが発生しそれがが現在も増殖を続けていることを題材とした。

 

最近特に感ずるのが二極化だ。

全ての事に対してこれが顕著になってきた。

 

私は現在、大学や仕事関係、また道場で若者に接する機会が多い。

彼等が昔と違うのは、全ての面で両極端が増えているという事だ。

 

例えば、礼儀作法などは、道場では出来ないものは一人もいないが、学生はおろか一般的な社会人でもびっくりするくらいできない者が多い。

それは、小学生を見ればわかる。

 

最近の(といってもかなり前から)小学生で入り口で履物をそろえたり、きちんと挨拶できるものは殆どいなくなった。

道場では教えるので入門して数ヶ月で見違えるように礼儀正しい小学生になるが。

 

要するに学校でまったく指導されていな事の証明だ。

ちょと教えれば全員できるようになるのに。

 

空手道場など特殊な環境で教育された者は身につけているが、たまたまそういうフィルターにかからなかたっ多くの若者がそのまま社会にでている。

そしてそういう基本的な礼儀作法のできない最近の社会人に多いのは素直に謝れない輩だ。

 

仕事や会社の付き合いの中で間違ったり失敗することは誰でもある。

素直に謝れば済むことをなかなか意地をはって謝ることができない。

 

社内なら局所的なトラブルで済むが対顧客や取引先でこういった失態を演ずると、個人だけの話ではすまなくなることがある。

私はここ数ヶ月間で集中的にトラブルに見舞われたが、その解決の過程で両極端を体験した。

 

良いほうから紹介する。

一つは合宿の前、合宿所の点検に九十九里に行った時、交通事故にあった。

 

車を横からぶつけられたのだ。

ぶつけたのは若い女性だった。

 

彼女はすぐ誤り、警察を呼んで事故証明をしてもらった。

彼女は保険に入っているしこれで問題は解決したと思った。問題はその後である。

 

保険会社はぶつけた当の本人とは全く異なる主張を始めた。

友人の弁護士に聞いてみると、今はどんなに一方的でも保険会社は一応過失割合の交渉に入るものだということだ。

 

久しぶりの事故なので、そういう時代かと思った。

相手もそれが商売であるなら会社の方針に従うしかないのだろう。

 

喧嘩はしたくないが相手が売ってきたら応戦せざるをえない。

まず現場の確認と状況を客観的に共通事項として認識しないといけない。

 

場所や道路上居の確認からしなければならないが、場所が九十九里である。

たいした事故でもないのにいちいち現場を確認したり、状況を証明するのも面倒だ。

 

しかし便利な時代になったものだ。

今や大抵の地形はグーグルで詳細に鳥瞰できる。

 

今回はこれが大変役にたった。

保険会社の担当者とお互いコンピュータを見ながら電話で状況の確認ができた。

 

私の話と、道路状況、そして車の事故の痕跡や当の相手が最初は過失を認めていた事などで、相手は素直に非を認めた。

過失割合は100対0ということで決着。

 

車は車体とエンジンがドイツ製、キャビンがイタリア製という特殊なものなので、完全に治すにはイタリアから部材を輸入しなければならないが、これだと費用がむちゃくちゃになるだろうし、期間も長くかかる。

こちらもそれをネタに吹っかける気は毛頭ないので、通常の板金修理をディーラーに見積ってもらい、保険会社のアジャスター(事故調査員)にも来てもらった。

 

アジャスターは私と同郷の福岡出身で話もスムーズにおわった。

こちらの過失割合の0を気持ちよく認めてくれたので、代車費用やその他の費用は請求しないことにした。

 

こちらの保険会社は出番が全くなく、提携弁護士にもその旨伝え互いに気持ちよく決着がついた。

話がスムーズに進んだのは双方が事実の正確な確認を第一義にしたことと互いの立場を理解して相手の主張をあたまから否定しなかった事にあったと思う。

 

保険会社の担当員は当初から社の方針に従っていたわけで、個人的なウラミがあるわけではない。

こちらもゴネて得をしようなんていう考えは毛頭なく、事実を正確に判断して誰が運転していてもこの事故を避けられる状況ではなく従って過失は無いはずだという私の主張の妥当性を素直に認めた事にある。

 

大げさに言えば互いに相手の立場に立って相手を思いやる気持ちがあり、双方とも正当な主張と適度に妥協する気持ちがあったからだと思う。

担当者は若い女性だったが、上司のアドバイスも受けながら上手に話しをまとめた。

 

もし、相手が素直でなければ私は部品を空輸してでも正規の修理を主張したかもしれないし、それは保険会社にとっても大きな負担になったはずである。

ある意味では私の妥協の方が大きかったのかもしれないが、私は気持ちが良かった。

このりっぱな保険会社は損保ジャパンである。

 

もう一つ話しがある。

私が個人的に自宅で使っているコンピュータディスプレイが壊れ真っ暗になった。

 

サービスに電話すると、その型番は基盤に問題があり、無償で修理するという。

早速送ると、手紙が来た。

 

問題の基盤は交換したが、液晶自体に問題があり、これはパネルを交換するしかない。保障期間も過ぎているのでこれこれの費用がかかるがどうするかという内容だ。

液晶自体の問題は真っ暗になる前から認識していた。

 

これは無償修理の範疇には入らないのかと電話で確認すると、担当者は申し訳なさそうに「そうだ」と答える。

修理代金は新しいディスプレイが2台くらい買える程の価格だったの少々驚いた。

 

これは社内規定で決まっている価格なのだろう。

「ずいぶん高いな」というと、恐らくディディスプレイの価格相場を知っているであろう担当者は「すみません」と答える。

 

液晶自体の問題は実用的にはギリギリガマンできる程度であり、そろそろ交換の次期も近いので、無償の範囲だけ修理をして送り返して欲しいと告げた。

担当者は申し訳なさそうに「わかりました」と電話を切った。

 

数日してディプレイは送り返されてきた。

早速電源を入れてみると、ディスプレイは完全に修理されているではないか。

 

なるほど、味なことをやる会社だ。

気持ちが良かった。

 

私の想像するに修理担当者は職人気質で、こういう中途半端な商品を送り返すのがいやだったのだろう。

と言っても規定をまげて無償修理する事もできない。

 

部材は新品ではなかった。会社に負担をかけないなんらかの工夫で修理したにちがいない。

じつは、この会社の製品は前も、こういう善意の修理をしてもらったことがある。

 

私は個人所有のパソコンは個人名で購入し修理も個人名で出すので私がコンピュータ関係の会社の経営者であることはわからない。

だからこのサービスは一般の個人誰もが受けている好意だと思う。

技術者魂を感じる会社だ。 

 

これも会社名を出しておこう。アイオーデータ機器である。伸びている会社だ。

 

随分昔になるがこれに似た別の体験をした。

ある有名メーカーの一眼レフカメラ(フィルム)を使っていた。

 

私の手違いで地面に落下させてしまった。

ミラーが壊れたのかファインダーで像を見れなくなってしまった。

 

しかたなくメーカーに修理を依頼した。

保障期間はとうに過ぎていたが無償で修理してくれた。

 

じつは、交換レンズは安価な社外品のズームレンズを使っておりそのレンズをつけたまま修理に出していたのだ。

しかもそのレンズは老朽化しておりズームをするとピントが合わなくなっていた。

 

修理から戻ってきたカメラを見てびっくりした。

新品のように直っているだけでなく、その社外品のズームレンズもピタリとピントが合うように直されていたのだ。

 

私は感動した。

これもそのカメラメーカーの技術者は、ある意味で越権行為だったと思うが、こんなピントのずれたレンズで自社のカメラの写りを評価されることが許せなかったのだと思う。

 

修理の内訳にはその事は一言も記されていなかった。

そのメーカーはニコンである。

 

真偽の程は不明だが、高級車のロールスロイスにもこんな伝説がある。

 

ある金持ちが砂漠をロールスロイスで横断をしていた。

しかし砂漠のど真ん中で車が故障してしまう。

 

やっとのことで無線か何かでロールスロイス社に修理の依頼を連絡。

しかし、砂漠の真ん中、いつ修理にやってくるか不安な気持ちでいると、

 

突然地平線のむこうから轟音けたたましくヘリコプターがやってくる。

ヘリコプターから身なりの良い紳士達が降りてきて、あっというまにロールスロイスを修理してしまう。

 

そして軽く会釈するなり飛び去ってしまう。

感動した金持ちは無事に戻るとすぐロールスロイス社に感謝をこめて電話をする。

 

「先日は本当にありがとうございす。ところで請求書を送ってほしいのですが・・・」

すると「お客様何かの間違いではございませんか。ロールスロイスは絶対に故障しません」

 

これも自社のプライドと相手を労わる気持ちが融合されて起きた事だろう。

このあまりに有名な話自体が本当かどうかは知らない。

 

でも、この会社には似たような対応は数多くあったのだろう。

自社の誇りと自信、困った相手に対する立場を超えた共鳴。

 

これが個人や会社が一流であるかどうかを決める。

今テレビで松下幸之助氏のドラマをやっている。

 

なかなか面白いドラマである。

二回目にこんなセリフがあった。

 

松下幸之助氏が小さな会社を起こし、そこに若い従業員を住み込みで雇う。

20歳前の貧しい若い工員たちだ。

 

奥さんはこの子たちにまず礼儀作法を教える。

その中でこんなセリフがあった。

 

「挨拶はなぜするのか、しなければいけないのか」

子供達は答えられない。

 

奥さんはこう教える。

「挨拶は敵味方を区別するためだ」

 

「挨拶は私は貴方の味方ですよという合図なのだ」と

「挨拶をされた事で相手はこの人が敵ではないとわかる」と言うのだ。

 

「挨拶をしないと敵か見方かわからず昔なら殺されたかもしれない」と説く。

説得力がある。

 

松下幸之助さんの教えなのか奥さんの教えなのか、あるいは演出家のジェームズ三木さんの創作なのかは知らない。

挨拶は相手を思いやるという一方的善意だけでなくこうした戦場での実用的な効能が背景にあるということを改めて教えられた。

 

惻隠の情はただ同情したり相手を思いやるがけではなく、相手を倒したり、身を守るための戦略という強烈な背景もあるのかもしれない。

先日来道場で話している「後の先」という戦いの心構え、戦法もこうした観点から見ると惻隠の情に通じた考えであることが分かる。

 

惻隠の情の話はまた別の観点からも述べてみたいと思っている。

 

 

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