ヒット カウンタ

武道からみた専守防衛

専守防衛という概念が現在どのような政治状況で使われ、そして解釈されているのかはテーマにしない。
武道という視点からこれを考えてみたい。

専守防衛を常識的に解釈すれば、「攻撃を行わず守りに徹する」ということになる。
この考えは、こちらからは一切の攻撃は行わず、向かってくる暴力に対しては防御だけで対処するということだ。

極めて崇高な思想であり、ある意味護身術としても理想論であろう。
しかし、これを単なる技術論として捉えた場合、極めて難しい高度な要求であることが分かる。

組手を行う場合、もし一切の攻撃は行わないと片方が宣言したらどうなるか。
普通はもう勝負にならない。

あらゆる受け技は攻撃と一体になって初めて意味を持つようにできている。
攻撃する方は一旦放った攻撃を上手に受けられてしまうと次には相手の反撃を覚悟しなくてはいけない。

つまり反撃を想定するからうかつな攻撃ができないのだ。
空手が上手になる過程で、急に組手が消極的になる時期がある。

長年空手を教えていると、これが殆どの人に共通の現象だということがわかる。
どちらかというと強い人程この傾向がある。

それは、ある程度実力が付くと相手の真の実力を感ずることができるようになるためである。
実力ある相手の破壊力のある突きや蹴りを現実感をもって想像することができるようになるためだ。

睨み合っているだけでは勝負にならないので、意を決して攻撃を試みる。
すると想像通りのいや想像以上のカウンターをもらい自分のうかつな攻撃を反省することになる。

こういった反省が度重なると大抵は反動を招く。
つまり井の中のかわずが大海を知ることで萎縮してしまうという構図になるのだ。

しかしここでくじけず地道な稽古を続けることで成功と失敗を積み重ねて強くなり、
やがて客観的な自分の実力を把握できるようになる。

強い相手を正当に評価しつつも、自分自身の強さも正当に(実際以上でもなく以下でもない)認識し、
自分の方がより強い場合はより余裕を持って対処し、逆に自分の方が弱くても、勝負に絶対はないわけだから、例え勝利への道が狭くてもあくまでそれを追及していくという敢闘精神溢れる戦いができるようになる。

本当の空手の稽古はこの時期からが本番になる。
自分の真の姿を強がりでもなく卑屈でもなく自然体として認識することが真の稽古の出発点である。

このレベルになると課題を持って組手ができるようになる。
相手のレベルに応じて相手のためにも自分のためにもなる組手ができるようになる。

例えば、まだ十分なスピードを身につけていない相手の場合は、自分の不得意な構えや不得意の突き、蹴りを主体にした組手を行う、といったことで強い相手のときにはできない稽古を行うことができる。

さて、今回のテーマである専守防衛について。
専守防衛とは攻撃せずに守りに徹っすることである。

自分の真の姿がおぼろげながら分かったレベル(普通は黒帯を初めて取得した頃)であれば、自分より低いレベルの相手に対してある程度専守防衛に徹した組手を行うことができる。

専守防衛には2つのパターンがある。

1つは、相手にこちらが専守防衛であることを告げた場合。
もう
1つは相手にはこちらが専守防衛であるということを告げない場合である。

どちらが大変な組手になるかはやってみるまでもなく分かる。
専守防衛を告げた場合だ。

しかし、実感として分かってもらいたいのでぜひ実際やってみることを薦める。
相手は、自分が攻撃される心配がないということになると、攻撃のタイミングは全て自分の都合で行うことができる。

また最初の一撃を受けられてもカウンターの心配がないので安心して
2の矢3の矢という具合に連続攻撃をしかけることができる。
お互い遠慮のないガチンコの組手であれば余程の差がない限りこの組手は成立しない。

一方専守防衛を事前に告げないで、つまり自分だけの方針として専守防衛を行った場合は展開は全然違ったものになる。
現実に攻撃がなければ相手はダメージが発生しないのでやはり防衛側は苦しい展開になるが、相手にとって攻撃を仕掛けられないのは何かの作戦や計略かもしれないわけで、特にある程度の上級者であればあるほどうかつには飛び込めないという心情になる。

このように、この2つのパターンは結果としてはかなり異なった様相を呈することになるのである。
専守防衛は状況としてはまるで異なる2つのパターンがあることが分かる。

告知した専守防衛。
告知しない専守防衛。

そして告知した専守防衛を現実問題と成立させるには圧倒的な力の差が必要であることも分かる。
一方告知しない場合は、それでもかなりのハンディではあるが工夫をすることで成立の可能性があることも。

武道の本来の目的は理不尽な暴力に対する防衛である。
そして防衛の理想は専守防衛である。

しかし、専守防衛というのは事前に告知した場合は殆ど実行不可能である。
武道とはそれが実行可能であるからこそ武道であるのであって、実行不可能であればそれは武道とは言わない。

武道とは現実の能力を有していなければならず、その効力、実行の可能性を否定してはいけない。
もっと言えば、その実行の可能性の否定を告知すべきではない。

刀は鞘から抜かれる可能性を否定しないから刀なのであって、鞘から抜かれることを全て否定したらもはや刀ではない。
抜かれる可能性は担保しつつ結果として抜かないのが理想なのである。

しかしその理想を現実のものとするには重要な前提がある事を知る必要がある。
専守防衛は武道の究極の理想である。

先手必勝は弱者でも実行可能な勝利方程式であるけれど、
専守防衛は究極の強者しか実行できないからだ。

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