ヒット カウンタ

正当防衛の難しさ


今年(平成15年)もいよいよ押し迫り、先日は現空研の忘年会に参加した。
昨今は、自衛隊のイラク派遣問題などいろいろ防衛に関する話題も多い。

現空研も自衛隊員や警察官など直接現場で暴力や攻撃にさらされることの多い会員もいる。
また一般の会社員や学生でも、どういう事件や騒乱に巻き込まれないとも限らない時代である。

武道を実践する者として、実力行使をしなければならない状況に陥った時とるべき態度、行動について忘年会の冒頭に挨拶させていただいた。

今回趣旨は同じであるが、別の視点から考えてみた。

まず、正当防衛の概念であるが、これは刑法の36条でそのものずばりで定義されている。
「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」が、正当防衛でこれは罰しないとされている。

これは、一見大変分かりやすい定義で誰もこれ自体に疑義や反論はないと思われる。
しかし、問題はこの急迫不正の侵害の判断だ。

突然暴漢がナイフを振りかざして襲いかかってきた、というような典型的な局面では判断のミスは少ないと思われるが、実際の社会生活の現場では、なかなか映画のシーンのような状況は少ない。

私が遭遇した現実的な状況は、危険が迫ってくる前の状況が結構長い。
例えば、次のようなケースだ。

飲み屋で一杯やっていると、そこにちょっと荒々しい感じの一団が入ってくる。
何となく店内にいやなムードが立ち込める。

しかし、その一団はすぐ暴力をふるったり、器物を損壊するわけではない。
何となく、威嚇的ではあるが実害を与えてはいない。

この段階では、一般の人は、なんとなく警戒ムードではあるが、何の実害も起きていないのだから特別の行動を取らないのが普通だ。
用心深い人なら、ここで席を立って帰るかもしれない。

しかし、これも程度の問題でその荒々しい感じの人のレベルによる。
年末であれば多少の酔っ払いはどこにでも居るので、いちいち反応していたら酒も飲めなくなってしまう。

大抵の人は、多少のその一団を警戒する気持ちを心の片隅に持ちながら、今までとおり談笑を続けるのではないだろうか。

そして、運の悪いときには、その一団の状況が徐々に悪化していき、何らかのトラブルが発生することがあるかもしれない。
席が近ければ、そのとばっちりを受けることもある。

そのとばっちりで暴力を受けそうになったり、受けてしまったときは当然防衛行動にでるのは人の常だ。
こうした場合その時の状況が急迫不正の侵害に当たるかといえば殆どの場合はあたらないのではなかろうか。

そうなる前にはそれなりの時間経過があり、急迫とは言えない場合が多いと思う。
私が遭遇した場面でも思い出すと、結構時間経過があり、状況も様々だ。

大声を出して今にも喧嘩が起きそうであったのに突然笑い声に変わったり、また怒号が起きたり、そうこうしている内にとうとう暴力沙汰が始まってしまうというケースだ。

正しい行動は110番しておまわりさんを呼ぶことであろうが、暴行を受けてしまってからでは遅いし相手が凶器なんか持っている場合は手遅れになることもあるだろう。

じゃ、そうなる前に電話しておけば良いかと言えばこれは無理である。
何となく荒々しい感じの人たちが居るというだけで110番することは出来ないだろう。

やはり、110番するのは、何かが起きてからでないと難しい。
とすると、現実には被害を受けてしまうということになる。

現実の暴力事件というのは、殆どの場合はそれほど急迫ではなく、正常と異常の狭間あたりの状況がうじうじと続いたあげく起きたり起きなかったりというケースが多い。

やはり、最良の行動はそういった状況の場からは早々に退散することであるが、そうもいかないこともあるのだ。

先日、こういうことがあった。
私は郊外の駅のホームで電車を待っていた。

そこはあまり人のいないホームで私の他は数人しかいなかった。
そこに若者が一人現れた。

その若者は、何となくピリピリした感じで大げさに言えばある種の殺気のようなものを感じさせる男だった。
何か思いつめているようでもあるし、怒りを押し殺しているようでもあった。
そして、一人でブツブツと何事がつぶやいている。

その男はホームの端からゆっくり歩きながら、他の人を一人一人睨み付けていた。
電車待ちの人たちは、自然に彼から離れるように移動した。

私はベンチに腰掛けていたが、彼は私から10mほどはなれたところに立ち止まった。
彼は、何らかの障害を持った人かもしれなかったがそれはわからない。

私はぼんやりと「この人が突然誰かを襲ったりする行動にでた場合はどうすればよいのかなぁ」と考えていた。
多分何も起きないだろうし、おきても危険な行為ではないかもしれない。
でも、何か起きても不思議ではない気配があることは彼の回りから人が居なくなったことからも十分わかる。

こういう場合の正しい行動はどういったものだろう。
その場に子供はいなかったけど、一人でこういう場所に子供が居たとしたらいやだなと思った。

あるいは女性やお年よりなどいわゆる弱者に相当する人達はどうすべきだろうと思った。
そうこう思っている内にやがて電車が来た。

私は彼の存在が気にはなったが、やはりかかわりたくないという気持ちが強く、電車の先頭の方に(つまり彼から遠ざかる方向)移動して適当な席に座った。
そして、やれやれと電車の中を見渡すと、さっきの変な男が電車のなかで辺りを睥睨しながらこちらに向かって近づいて来るではないか。

偶然だろうとは思うが、やがて彼は私の車両に移りなんと私のまん前に座った。
彼はやはりそこで異常感のある行動をとりはじめた。

私はやがて自分の目的の駅が来たのでそのまま降り、私にとっては事件でもない出来事に終わったのであるが、何かを考えさせられる経験だった。

こういう場合多分大抵の人は私と似たような行動をとるだろう。
つまり、目立たないように立ち去る。
電車の中のような場合はなるべく離れた所に移ろうとする。
しかし、今回の私のように悪い方悪い方へ転がっていく事もある。

最近多い通り魔事件であるが、おかしそうな人が背後から来ても、その人が本当におかしいのかあるいは危険なのかは分からない。

なるべく自然に遠ざかるように行動しても私のようなケースもある。
そして多少行動が変でも本当の通り魔や暴力を振るうといった人はほんの一握りであろう。

しかし、少数ではあっても実際にそうした暴力の対象になってしまって悲惨な結果になってしまったのでは後でどんなに悔いても悔やみきれるものではない。

考えてみれば、こういった危険と安全の狭間というのは日常の大部分を占めているということがわかる。
道路を車で走っている場合だってそうだ。

いつ対向車の運転手が意識を失ってこちらに突っ込んで来るかは分からない。
殆どの人はそういうことは自分には起こらないと考えているのだが、全国規模で見ると毎日といってよいほど類似の事故は起きている。

話をもどして、暴力事件に限って考えても、どんなに注意していてもまた、どんなに事前にそうした事件を避けようと行動していても巻き込まれる時は巻き込まれる。

問題は、それが自分の身に降りかかってきた時どう対処すれば良いのかということだ。
避けようと思っていても避けられない事がある。
正当防衛も急迫不正の侵害に該当するかどうかなど考える余裕はないだろう。

また、余裕があったにしても、その場で考えて正しい結論が出るとは限らない。
私は自分自身の過去の正当防衛的な行動を思い起こしても、反省点のほうが多い。

最も適切なタイミングで適切な行動を取るといった事は、なかなか普通人にはできない。
映画の主人公のようにスマートな展開にはなかなかならないものだ。

別にスマートな展開でなくても良いのだが、正当防衛の発露ということになれば、下手をすれば人生に禍根を残す結果にもなりかねないので、最低限間違った行動だけは避けなければならない。

間違った行動をとらないための一番大切なことは、普段から自分の行動規範を作っておくことだ。
それもなるべく具体的なものが良い。

こういったケースではこういった態度を取ろう、とかこのよう行動しようということだ。
私は子供を叱る場合は事前に決めた私の心の中のマニュアルにしたがうようにしている。

これと同じように正当防衛に関しても自分のマニュアルを作り、心の中でシミュレーションを行うことが効果的だと思う。
戦後の日本にはこうした危機管理におけるケーススタディーを嫌う風潮がある。
特に、暴力や戦争を忌み嫌うあまり、こうした事例を検証することさえタブー視するむきもある。

暴力を防いだり、無くすためには、暴力の起きる原理や実際に起きた事象の検討は不可欠なものである。
実体を知らなければ防ぎようもないからだ。

まず、自分に起きそうな(あるいは今までに経験した苦い思い出など)ケースを想定し、現在の自分が取れる最適な対処方法をシミュレーションしてみることだ。
意外と難しい事がわかる。

正しい(と信じられる)行動というのが事前に十分な時間をかけて考えても難しいということは、たとえ急迫不正の侵害でなくても、つまり少しくらい考える時間があっても正統な行動(防衛)という事がとても難しいということだ。

ましてとっさ(急迫不正の侵害時)の判断で正しい行動をとるのは奇跡に近いと言わざるをえない。
ますます事前のシミュレーションの大切さがわかる。

最近、テロの頻発により危機管理という言葉が脚光をあびたり、正統防衛という言葉がマスコミにもよく登場するようになったのであるが、具体的な対策や行動規範といったものはなかなか表にでてこない。

いわゆる人権問題やその他の思想的な思惑から及び腰になっている気配が感じられる。
しかし、こうした問題を真正面から検討することが本来の平和、自由を獲得する王道であり、真の意味での弱者救済になるということを理解すべきではなかろうか。

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