ヒット カウンタ

夢のルール実現に向けて


私が空手を始めた頃、空手の試合(全空連)は寸止めであった。
しかし、当時の試合形式は現在の全空連の試合とは随分雰囲気が違う。

まず、メンホーのような顔面防具はないし、細かなポイント制も無かった。
きれいに決まった場合の一本とやや不十分の技ありの2種類である。(現在の現空研方式と同じ)

その一本のとり方は、統一ルールのようなものはあったが、実際には流派によって全然違うし、同じ流派であっても道場が違えばまた違っていた。

極端に言えば審判の数だけルールがあったようなものである。
我々は試合をするときは、まずその審判がどのような判定をするクセがあるのかを知ることが勝利への近道だった。

極め、残心、気合、音、引き手、当てるか否かといったことがポイントになる。
あの審判は「気合」で一本取れるぞ、とか「音」出せば一本だ、といった会話が飛び交うのだ。

気合というのは、本来の気合ではなく、アピールのための気合なのだ。
本来(フルコンや実戦)では効くはずの攻撃も、極めが甘かったり、アピール性に欠く気合だったりすると一本として取ってもらえない。

大して上手でもない選手が気合だけで上位に入るということも珍しくなかった。
次に音が重要であった。

空手の試合で音を出すためには、相手に当てる必要がある。
細かく言えば相手の空手衣に当てる音である。

「パシ!」という音が鳴り響くのが理想なのだ。
寸止めを長くやっている人は周知の事実なのだが、これも独自のテクニックがある。

本来はスピードのある中段突きを皮一寸で止める、当然それより前にある空手衣には勢い良く当たるはずで、スピードがあればあるほど大きな音がするはずだ、というのが一本の理由であるのだが、実際は必ずしもそうではない。

音が出るテクニックがあるのだ。
例えは、自分の空手衣から音を出す(衣擦れ)テクニック等。

音と言えばもう一つは床を踏む音だ。

勢いのある踏み込みがあれば当然床から音が出る。
したがって、音があれば良い踏み込みのはずだ、と言う論理が成り立つ。

そうなると、踏み込みをアピールするために音を出そうとする。
これも一種のテクニックが誕生する。

伝統空手(寸止め)の特長にそのスピードを挙げる人は多い。
私もそれを否定するものではない。

しかし、スピードをアピールするためのテクニックがあり、それを承知しながら試合で勝つためにはそのテクニックを修得せざるを得ないという事実があるのも否定できない。

次に「寸止め」であるが、この寸止めという言葉はその言葉が本来意味する事実とはかけ離れている。
昔の全空連の試合(現在でもその伝統は引きずっている)を見た人は、空手の経験者でないかぎり、寸止めの意味が理解できなかったと思う。

一本と宣言される攻撃はことごとく実際には当たっており、決して寸止めではない。
寸止めルールは本来は当たる寸前で止め、実際に当てれば反則となり負けるはずである。

しかし、一本勝ちした選手は例外なく当てて勝っている。
しかし、たまには当てて反則を取られる選手もいる。

この違いはどこにあるのか。
この違いは経験者には分かる。

当てる突きと当たった突きの差なのだ。
故意に当てる突きは反則であるのだが、正しいフォームでスピードもあり、完璧な極めと残心があれば、多少相手に触れていてもそれは構わないのだ。

というより、触れていなければ不十分とみなされ一本として取ってもらえないのだ。
触れていなければ当然音もでないしアピール度にも欠ける。

一方反則を取られるのはどういう場合か。
相手がノックアウトされれば間違いなく反則を取られる。

ノックアットしなくても鼻血を出したり、明確な怪我の兆候があればこれも例外なく反則だ。
これは、寸止めの趣旨から言っても当然だろう。

しかし、勝つことに専念する者は、意識的かどうかは分からないが、これを逆のアピールに使おうとする。
つまり、当てられたとき平然としていれば相手の一本になるが倒れてしまえばこちらの一本になるという事実を逆利用するのだ。

これは、最近のサッカーの試合でちょっとでも触れられると大げさに転んだり、痛がって審判に相手の反則をアピールしてペナルティーを得ようとする光景と似ている。
サッカーの場合は、目的がボールをゴールに蹴り込むことだから、決定的な問題ではないのだが、空手とは本来相手を倒すことを前提とした武道であり、競技である。

それが、相手が倒れる(つまり効いている)とこちらが負けになってしまうということに大いなる矛盾があるのである。

寸止めの突きは威力がある、試合で間違って当たった場合は皆倒れてしまう、という感想はある意味では正しいがある意味では間違っている。

正しいは意味は硬いもの(頭蓋骨や鼻や歯)に硬いもの(拳)を当てるための技術としては理想的なテクニックであるという意味。
間違っているのは、ボディーなど比較的弾力のある部分に当てて相手をKOさせるテクニックとしてはあまり適切でなく、実際に相手が倒れる場合の大半はアピール目的のものであるということ。

このアピール目的というのは、かならずしも姑息な芝居というものではない。
倒れる選手の意識としては実際苦しいから倒れたという意識を持っているだろう。

しかし、それでもやはりアピールなのだ。
仮に、ボディーを打たれて一瞬でも倒れればその場で一本負けというルールだったとしよう。

倒れる選手は激減すると思う。
つまり、ルールによって選手の心構えがまるで違ってくるのだ。

安心して倒れていいルールと倒れれば負けを宣告されるルール、この違いで結果はまるで異なる。
これは、何も寸止めルールだけで見られる現象ではない。

フルコンであっても、ルールで禁じ手とされている技をもらった場合、大体選手は大げさにアピールするものだ。
だから、こうした技や攻撃が実戦において有効(すぐダウンを奪える)と考えるのは早計なのだ。

ルールの中の禁じ手で相手が簡単に倒れるので、それが威力あるものと誤解してしまうというのは、経験者も十分心しておいて欲しいことである。

バーリトゥードゥ(何でもありの格闘技)がこれらの一端をあかしてくれた。
かなりの反則技(従来の)であっても人間は簡単には倒れないことを。

しかし、バーリトゥードゥといっても、やはり全ての反則技を取っ払ったわけではない。
空手の技としてはありふれた(実際には禁じ手なので使われないが)目突きや貫き手、金的攻撃は使用できないため依然未知数のままだ。

それと、最も本質的である生身の正拳。
これが使用できない。
本来の空手は石のように鍛え上げた拳をぶち込むことを前提として技が作られている。

ボディービルで、徹底的に鍛え上げられた筋肉を作るにはおそらく10年以上はかかるであろう。
空手の拳でも、同じくらいはかかる。肉体改造には時間がかかるのだ。

こうした極限まで鍛えこまれた正拳の威力を実際に試せるようなルールはまだ存在しない。
しかし、私は不可能だとは思っていない。

フェンシングでは、最新のハイテク技術を使って様々なルールや試合形式が試みられ、実現されている。
空手でも、不可能ではないと思う。

より実戦に近い試合、しかもそれを生理学的に安全に実現できるようなルールや防具、審判方式の整備。
これは、現空研がこれから目指す理想的な空手であり夢である。

夢ではあるがハイテク時代の現代こそ実現可能なものであると私は確信している。、

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