日常生活の中でのトレーニング

2018/02/23

 

生涯空手を目標とした場合、日常のトレーニングの方法が問題になる。

本来武道というものは毎日の生活の中での行動規範である。

 

社会人の枠の中でトレーニングを考える場合、いくつかの大切なポイントがある。

 

一つは手軽にできる事

費用がかからない事

習慣化し易い事

 

である。

 

手軽にというのは具体的には器具や補助者を必要としないで、一人でいつでもできるという意味である。

費用がかからないという点も重要である。

 

高価な器具を揃えたり、施設の使用料が高い所でのトレーニングはモチベーションがハイの時は良いが、長いスパンで考えるといろいろ無理がでてくる。

長く続けるという意味ではコストは大きな問題だ。

 

最後の習慣化し易い事。

これが一番大事な事かも知れないが詳しくは後で。

 

私も過去いろいろなトレーニングを考案し、実践もしてきたし効果のあったものは皆にも薦めた。

しかし、アイデアも良いし効果もあったのに結局続けるのが難しいものもあった。

 

その例を一つ上げる。

それはぶら下がり健康機を使っての1日1回の懸垂トレーニングだ。(スクワットも薦めた)

 

最低一日一回懸垂を行う。

一回なら簡単にできるし負担にもならない。

 

調子が良ければ何回でも行う。

要するに一人で行う継続的トレーニングの最大の敵は、体調が悪かったり、モチベーションが下がった時ついつい億劫になってやらない日ができてしまう事だ。

 

一回なら簡単なので少々気持ちが乗らない時でもできる。

やってみると案外もう少しできたりする。

 

要するにハードルを低くして継続を促すという方式だ。

 

しかも懸垂は空手に取って大きな効果があることは私は経験上知っている。

腕力や背筋、腹筋が効率的に鍛えられる。

 

そしてトレーニング強度が高いレベルで一定のラインをキープできる。

なぜなら、自分の体重が負荷になるので、ごまかしが効かないのだ。

 

腕力が付いても、体重が増えれば帳消しになるのも懸垂の良いところだ。

筋トレをしながら体重コントロールにもつながる。一石二鳥だ。

 

この素晴らしいトレーニング方法がなぜ挫折したか。(完全に挫折したわけではないが)

それは当初は思いもしなかった事が原因である。

 

ぶら下がり健康機は、頭より高い所に水平の棒がある。

これはハンガーなどを引っ掛けるには大変都合が良い。

 

そこに収納するつもりでなくてもちょっとの間引っ掛ける。掃除の時に引っ掛ける。片付けの途中に引っ掛ける。

家の中の全てのバーや棚、平らな所は物置になるのだ。

 

恒久的な物置にはならなくても一時的な避難場所としては日常的に使われるのが常だ。

これは仕方がない事だ。 

「物が置ける場所は全て物で埋め尽くされる」

 

これは公理だ。

誰が悪いわけでもない。

 

つまり懸垂の場所を恒久的にキープする事は不可能だという事なのだ。

これが、トレーニングを中断してしまう大きなきっかけとなる。

 

あらゆるトレーニング器具はベンチなど平らの所があれば洗濯物が積んであったり新聞雑誌の一時避難場所になる。

これを防ぐことは不可能だと思った方が良い。

 

努力しなくても家の中をモデルルームのようにすっきりできる性格の人なら可能であるが、それ選ばれたごく少数の人だけだ。

この件については深入りしないが、物が溢れかえる現在の社会状況を素直に捉え、諦めも肝要。

 

つまりこのぶら下がり健康機による懸垂作戦はこうした思わぬ伏兵によって無残にも砕け散ったのだ。

 

この「習慣化し易い事」というのは、本人のやる気やモチベーション、またトレーニング自体の効果や実効性意外に生活環境や家族関係、その他様々な社会的な状況も考慮して考えなければならないという事が分かってくる。

 

勿論これは生涯空手という観点にたった場合である。

特定の大会や昇段審査に向かっての準備ということであれば、短期のトレーニングということになるので条件や制約は全く異なる。

 

十年いや何十年というスパンで考える場合は先に述べたような自分という内面の問題だけでなく環境文化的な背景をも考慮しなければならないという事だ。

 

私が40歳台から続けていて現在も続いているある魔法の方法がある。(この歳になると結構多くの魔法を知っているのだ)

これを今回紹介してみたいと思う。

 

大それたことでも、画期的なことでもない。

それは方法論というより心理的な心構えと言った方が良いかもしれない。

 

結論を言う前に一つ確認しておきたい事がある。

それは私はそうであるが、おそらく大多数の人もに当て止まる原理、「楽をしたい」という本能的な欲求だ。

 

例えば力仕事、家周りの力仕事や大掃除、荷物の運搬など、これは基本的にやりたくない。

しかし、やらなければならない時は最大限効率的に行おうとする。

 

極力無駄を排して最低限の労力で最大限の効果を生もうと考えるだろう。

これは当然のことだしそもそも人類はこうした工夫で農業や工業を発展させてきた。

 

例えば一階と二階の家具の配置の変更を行うとする。

重い家具を何度も上げ下げするのはまっぴらだ。

 

なるべく少ない回数で効率的に作業を行うように工夫する。

しかし、手順を失敗したとする。

 

思い荷物を担いで無駄な往復をする事になった。

まあ、大体殆どの人は自分に腹を立て、自分の馬鹿さ加減を恨む。

 

人間は無駄が大嫌いなのだ。

どこかの国の囚人の罰で最も嫌な作業として、穴を掘らせて、無意味にそれを埋める。これを延々と繰り返させるという話を聞いたことがある。

 

自分のやっている事が何の役にもたっていない、つまり無駄の塊のような作業である。

これで大抵の囚人は心理的に参ってしまうらしい。

 

確かに想像できる。

我々は本当に無駄が嫌いなのだ。

 

ここからが本題である。

振り返ってトレーニングの実体とはなんであろう。

 

ひたすら重い物を持ち上げては下ろす事を延々と繰り返す。

どこへ進むわけではない固定された自転車をただひたすらにこぎ続ける。

 

同じトラック内をどこへ移動するわけでも延々と回り続ける。

この労働は、生産という観点から見れば何の役にもたっていない。

 

囚人の罰と本質的には同じだ。

しかし我々はこうしたトレーニングは無意味だとは思っていないし、疲れてもある種の爽快感さえ持てる。

 

なぜならこれは、生産が目的ではなく体を鍛えるということが目的だからだ。

つまり同じような行動を取っていても、その目的意識がどこにあるかで、その苦痛の度合いは全然違ってくるのだ。

 

ここに大きなヒントが隠されている。

つまり、我々の行動は殆ど社会の中で生産を意識したスキームで価値判断が行われ、生産に関与しない行動は無駄という概念に心底毒されているということだ。

 

ではなぜ人々はなんの生産も利益も産まない無駄な行動を延々と繰り返すトレーニングジムに高い金を払って通うのか。

そう考えると空手道場も同じ事だ。

 

同じ疲れる作業、労働でも、それに目的を見いだせれば人は無駄だとは思わないし、むしろ金を払ってでも行う。

断食道場なんかも同じ構造だ。飢餓で苦しむ時代から見れば食料を取らないために金を使うなんて考えもしなかっただろう。

 

つまり人間は同じような行動や労働もその目的如何よって、肯定的に不定的にも、もっと言うと金を払ってでも行いたい欲求を持ったり、死刑にも匹敵するような罰になったりすると言うことだ。

どんな仕事も作業もそれをどう捉えるかで天国と地獄の差になる。

 

私はある時期このことに気がついた。

それまでは、庭仕事とか荷物の運搬、大掃除などは大嫌いであったが、ここでの力仕事はトレーニングだと考えれば良い、ということに気がついたのだ。

 

重い荷物を持って階段を上り下りするとか、手順のミスで作業量が増えた場合でもこれは良い筋トレだ、と思うようにしたのだ。

これは随分効果があった。

 

効果といっても精神面での効果が一番大きいかもしれない。

段取りミスによる無駄な作業がある意味無駄ではないという観点を持てる事で日常のあらゆる行動を肯定的に捉えることができるようになったからである。

 

私は空手ではいつも脱力、脱力と口癖のように言っているが、日常生活における動作ではわざと疲れるような形態をとることも多い。

重い荷物をワザと疲れる角度でキープして運ぶとか、階段の上り下りの回数をわざわざ増やすとか。

 

先日テレビである病院の先生が歩く距離を増やすため、毎回診察の時待合室の患者のところまで自ら出向いて患者さんを呼びに行くという話をされていたという話を聞いた。

この方も私と同じような考えをお持ちなのだと思う。

 

つもり、習慣化するには、それが精神的な負担にならないというかむしろ快感とか喜びに結びつく意味付けが一番重要なのだ。

どんなに効果的な運動であっても、それが「本来なら楽したい欲求に逆らって頑張ってやる」という構造だといつかモチベーションが下がった時に挫折してしまう。

 

しかし、快感とか喜びに繋がっていれば挫折することはない。

おそらくほっておいても一生続けることができるだろう。

 

穴を掘って埋め返すという罰を与えられた囚人も脱走の為の体力増強トレーニングと考える事ができたら、それほど苦痛にはならなかっただろう。

 

エレベータを使わないで階段を登るという行為は、停電や事故で強制的にやらされたのでは苦痛意外のなにものでもないが、毎日トレーニングとして行っている人には、肉体的にきつくても毎回ある種の達成感があり快感に結びついていると思う。

 

私はある時期からあらゆる肉体的な作業はトレーニングとして捉えることにしてきた。

勿論トレーニングとしてはあまり質の良くない作業もあるだろうが、多分寝ているよりはプラスになる事の方が多いだろう。

 

私は同世代の人と比べると空手の技とかそういう部分は除いても多分圧倒的な体力の持ち主だと思う。

それは日常をこうしたトレーニングだと肯定的に捉える習慣が作ったものだと自負している。

 

外回りで歩く事の多い仕事をしている方はトレーニングとしてはかなり上質なものを日常に取り入れていることになる。

デスクワークが主体の方は、力仕事や掃除などで手伝える時は積極的に手伝うようにすると良い。

 

人にも感謝されるしね。

それでも多分足りないので、時間的に許される状況であれば一駅歩くとか、エレベータは使わないといったルーチンを入れるのも良いだろう。

 

とにかく日常で体力を使わなければならない状況が起きたら、それを否定的に捉えず全てトレーニングだと考える事。

これで人生変わると思うよ。

 

多分。



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