年齢に応じた稽古

2019/11/12

 

 

現空研も高齢者の会員が増えてきて、年齢の幅が大きく広がった。

今回は、年齢に応じた最適の稽古方法について考察してみたいと思う。

 

私の個人的な体験を踏まえて考えると、若い時はある程度の無茶も、それが合理的でない場合であっても、経験として貴重なデータになるので無駄ではないと思う。

単純な筋トレでも、昔は良いと思われていた方法が時代とともに否定されるという例は枚挙にいとまがない。

 

ということは、現在推奨されている方法もいつ否定されるかわからないということだ。

私が高校生の頃は、「ウサギ飛び」全盛期でどんな部活でも、徹底的にやらされていた。

 

マラソンの時は、必ず「水を飲むな」と言われていた。

腹筋やスクワットに関しても現在では昔の方法は全否定されている。

 

じゃ、それを恐れて、全ての訓練は、将来どんな評価になるか分からないから止めておこう、となるとなんの訓練もできないことになる。

私は、現在では一つの目安で判断している。

 

道場でも時々話すのだが、筋トレもでも技の稽古でも、一週間経って疲労が蓄積するようなものはオーバートレーニングではないかと疑ってみるのが良い。

大切なことは「筋肉痛」ではなく「疲労」ということ。

 

「筋肉痛」と「筋肉疲労」どこが違うのですか、と聞かれると厳密な差異を説明することは難しい。

あえていうと、筋肉に痛みがあっても、何か爽快感というか、達成感のあるような痛みは良しとする。

 

しかし、倦怠感とか精神的なやる気が阻害されるようなものは、肉体からの黄色信号ではないかと考えてみる事も必要ではないかとも思う。

もっともこれは通常の稽古においての目安である。

 

大会に出るとか昇段審査に臨むとかいった場合は、モチベーションの高まりのためオーバートレーニングであっても高揚感のため肯定的に捉えてしまう傾向になるのは誰でも経験があると思う。

プロの競技者やオリンピックの強化選手レベルであれば、専任のコーチや指導者がそのあたりはチェックしていると思うけど、一般のアマチュアであれば全て自己責任の範囲となる。

 

私は「肉体との会話」という言葉でこのことを説明することがある。

希望や欲、自我といった精神を別にした客体としての身体を仮定し、言ってみれば他人として見る自分の肉体との会話を試みるのである。

 

例えば、毎日千回突と蹴をサンドバックに叩き込むという稽古を続けるとする。

もし、一週間たっても、それなりの筋肉痛や疲労はあっても爽快感があり、自分の肉体がOKのサインを出しているという実感があれば、それはオーバートレーニングではない。

 

しかし一日百回の突、蹴でも、疲労が蓄積し、肉体から休みたいというサインを感じたら、それはオーバートレーニングである。

こういう場合は体を休ませなければならない。

 

ただ一つ注意したいのは、この疲労感が肉体的なものではなく、精神的なものの場合だ。

例えば、モチベーションの低下とか人間的なトラブルが原因の場合の疲労感だ。

 

この場合は、単純に体を休ませるといった事では解決できないし、逆に肉体的な負荷を与えることが、精神的に良い影響を与えることもある。

例えば軽いうつ状態の時、運動が体調をより良い状況に導くこともある。

 

私は、あらゆる精神疾患を肉体の強化で修復できるといったスポーツ万能論者ではないが、ケースによっては有効は場合もあると思っている。

この場合、大切なことはその行動が自発的であるかどうかである。

 

自分で精神を鍛えようと思ってやる行動なら、おそらくそれが良い結果を生む確率は高い。 

いずれにせよ、自分の肉体と先入観なしで会話することを試みる事が適正な訓練を生む秘訣であり、大きな間違いを無くす事に近づくと思う。

 

次に問題となるのは同じトレーニングであっても年齢によって意味合いが違ってくるということだ。

私は大きく分けると30才前、30才〜50才、50才以上とするのが合理的ではないかと考えている。

 

昔は、ガンガントレーニングするのは20才台で、30才台は維持、40才移行は健康増進のためのおまけのようなものという考え方が多かった。

私も20才台の頃は40才になったら空手から引退しようと思っていたくらいだ。

 

しかし今は全く異なる考えを持っている。

40才なんて、今から考えると未熟も甚だしいレベルで、単純なガチで強いか弱いの判断でも、40才なんかはまだまだ発展途上にしか過ぎない。

 

現空研も少年から70才台まで幅広い会員がいるけど、その大半は現在がその人の最強であることは自他ともに認めるところであろう。

人間の肉体的な力(単なるパワーではなく総合力)は、適切な鍛錬を行えば一般の方が考えているよりはるかに年齢を超えて増大するものである。

 

しかし、その適切な鍛錬というところは非常に重要で、これを間違えるととんでもない事になる。

最初に述べたように、若い頃は、多少間違った方法や無茶な事を行っても、弊害は少ないし、それなりの成果も得られる。

 

しかし年齢が行くと、不適切が鍛錬、特にオーバートレーニングと怪我から受けるマイナスが非常に大きくなる。

昔はできたからという判断が一番危ない。

 

回復力は年齢とともに低下していく事は誰もが避けられない。

そして、怪我をした場合も回復に時間がかかるようになる。

 

怪我には可逆的なものと不可逆的なものがある。

不可逆的な怪我は年齢を問わず避けるのは当然の事である。

 

不可逆的とは目が見えなくなるとか、五感を損なうようなもの、あるいは頭部とか脊髄など体の重要器官に回復できないような障害を残すようなものである。

一方筋肉痛のよういずれは治るようなもの(可逆)は、鍛える過程としては超回復を促すための必要事象であったりする。

 

しかし、可逆的なものであっても、その修復にかかる時間は年齢とともに長くなるので、最適な負荷というものは年齢とともに軽くなるのは当然のことである。

超回復を狙った筋力トレーニングでも、超回復迄の時間と得られる利益の相対的な関係で捉えなければならない。

 

ただ、壮年期における最適負荷は、その人の熟練度によっても大きく変わる。

技の鍛練と力の鍛練は、心がけにおいては真反対の条件を与える必要がある。

 

筋力をトレーニングするには筋力は一時的に疲れさせなければならない。

わざと弱い部所の筋力を使ってダンベルを上げたりとか。

 

しかし技の習得は筋力を最も効率的に使う疲れない方法を編み出す事でもある。脱力とは正にこのことを言っている。

筋力は脱力していたのでは身に付かない。

 

稽古は大きく分けると、この筋肉を無理に使う方向と使わない方向の二種類があるということを自覚しなければならない。

例えば空手の基本稽古は年齢を問わず初心者にはそれなりの負荷があり、技の習得だけでなく、体力の増強にも役立っている。

 

一方熟練者は、脱力した技を常に出せるので、基本稽古は、技の再確認や微調整には大いなる効果があるが、筋力は殆ど使わないのでそういったトレーニングにはならない。

熟練者は高齢であっても、フルパワー(に見える)突、蹴を連続して出していても、瞬時にパワーの集中と脱力を繰り返すので、一時間やそこらでは全く息も切れない。

初心者はへとへとになる。

 

これは、熟練者にとっては基本稽古は技のトレーニングにはなるが筋力アップのトレーニングにはならないということを意味する。

逆に基本の突、蹴でへとへとになるようでは熟練者とは言えない。

 

熟練者が筋力トレーニングするは別メニューが必要になるということだ。

 

最適なトレーニングは年齢、熟練度に応じて、適度な筋肉痛や疲労を覚え、その疲労が適度な時間で回復して稽古の度に増していかないというものということになる。

そして何より大切なことは回復できないあるいは治すのに長期な時間を要するような怪我を極力避けるということである。

 

怪我を避けるには本人だけでなく指導者の意識も大切である。

指導者が無理な稽古を強いれば、それに逆らうことは指導を受けている者にとっては重荷になるからである。

 

とはいえ,空手は武道でありその本質は命のやり取りを前提にしたものである以上、怪我を皆無にすることは難しい。

しかし、怪我は必要であると開き直る事は決して良い結果を生まない。

 

人を殺傷するための技術を追求しながら怪我をするな、させるな、というのはおかしく聞こえるかもしれないが、怪我をしないことは最強への最短距離であるということは再確認してもらいたい。

 

 


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