猫の妙術 

2012/06/09

 

猫の妙術という面白い話があります。

 

あらすじは以下のとおりです。

 

ある剣術使いがいました。
その家に大きな鼠がいてわがもの顔にふるまいます。

そこで剣術使いは飼い猫に鼠をとらえさせようとします。
しかし鼠はやたらに強くて敵いません。猫は鳴きながら逃げてくるしまつです。

 

剣術使いは近隣から腕利きの猫達を集めてその鼠と対戦させます。
しかしどの猫もその鼠のあまりの強さに歯がたちません。

剣術使いはとうとう堪忍袋のおが切れて自ら木刀をもって鼠を打ち殺そうとします。
しかし鼠を打つことはできず、障子やふすまを破ってしまっただけです。

そこで、かねてから達人のうわさのある猫を借りてくることにしました。
しかし借りてきてみれば、年を取っているしあまり利口そうでもない。

しかたなく試しにその猫を鼠のいる部屋に入れてみると、あら不思議例の鼠は何も抵抗できなくあっさりと捕らえられてしまいます。
その夜、負けた猫どもが集まりこの古猫を上座にすえて、反省会を開きます。

まず負けた猫が言います。

「我々は全員逸物と呼ばれ、修練を積み、鼠は当然、いたちやかわうそでも捕えられるくらい爪も磨いて修練を積んできた。

しかし今回このような強い鼠が居ることは知らなかった。

それを貴殿はどういう技を使ってかこれを簡単に負かしてしまった。

もしよろしかったら、我々にその妙術を教えてもらえないでしょうか。」

古猫は笑って言います。

「若い猫の皆さん。随分達者に働いたのだが、まだ正しい真理の道を知らなかったため想定外の事に対処できず、不覚を取ったのです。

まず、お話する前に皆さんの修行の程をお聞きしたいと思います。」

 


するとその中の鋭い顔をした黒猫が一匹前に出て言います。
「私は鼠を取る家系に生まれ、その道を心がけ、七尺の屏風を飛び越え、小さな穴ももぐり、子猫の時から早わざ軽わざで出来ない事は無く、
あるいは眠ったふりをしてて不意に天井裏を走る鼠といえども捕り損ずる事は無かった。

しかし今日は思いのほか強い鼠と出会って一生の不覚をとり悔しくてなりません。」

 

古猫は言います。
「あなたの修行した事は所作(テクニック)だけです。

だから狙う心がそこにあるのです。

昔の先生が所作を教えるのは理(真理)への道筋を教えるためなのです。
所作(テクニック)の背後には理(真理)があるのですがそれが正しく伝えられず今日の風潮は所作(テクニック)だけの追求に走り、その競争に成り下がっています。

その所作が通用しない状況ではどうすること出来なくなります。

小人(未熟者)が手先の知恵や技巧に走るのも皆同じです。
才は心の用として必要ですが道理に反しただ功のみの追求になればそれは偽となりかえって害か多くなります。

ここのところをよく反省し更に工夫して修練すれば良いでしょう」

 

 

次に虎毛の大猫が進み出て言います。
「私が思うに武術は気が大切です。
それで気を長い間修練しました。
今ではその気は豁達至剛(かったつしごう)にして天地に満ちるまでになりました。
敵を足元に踏み、まず勝って後から進みます。
相手の声や気配を察知することで、変化に対応できない事はなくなりました。
所作(テクニック)を使う事を意識するのではなく、自然に湧き出るように使います。
今や天井の桁やハリを走る鼠はこれを睨むだけで落として捕獲できます。
しかし今回の強鼠は来るのに形が無く、退くにも跡がありません。
これはいったいどうした事なのでしょう。

 

古猫は言います。
「あなたの修練したものは、気の勢に乗って働くものです。
自分の気力だけを頼みにしています。
それは最善のものではない。
自分が相手を破ろうとすれば敵も破ろうとする。
破ろうとしても破れないときはどうするのか。
自分がやろうと思うことは敵もやろうとする。
どうして自分だけが剛で敵は皆弱だと言えるのか。
豁達至剛(かったつしごう)にして天地に満ちるまでになったと思っているのはうわべの気でしかない。
孟子が言うところの浩然の気と似ているようだが実は違う。
彼(孟子)は全てを理解した上での剛健だがあなたは勢いに乗じただけの剛健だ。
だから結果はまるで違ったものになる。
それは黄河が常に流れているのと一夜の洪水の勢いの違いのようなものです。
気勢に屈しない者があるときはどうするのか。
窮鼠猫をかむということもある。
そのような者は必死で生命も忘れ欲も忘れ、勝負はどうでもよく、身の安全なども考えない。
その心は金鉄のようなものです。
こうした者に気勢だけで勝つことができますか。

 

 

次に灰色の少し年取った猫が静かに進み出て言います。

「あなたのおっしゃるように、気力がさかんであればそれは象(かたち)になって現れます。

象(かたち)があれば、それがわずかであっても敵から見えます。

私は長いあいだ心を鍛えて、勢いを見せないようにし、争わず、相和してきた。

敵が強い時は和して流れにしたがう。

私の術は幕でつぶて(投石)を受けるようなものです。

どんな,強鼠でも私に立ち向かう手段はないはずなのです。

しかし今回の鼠は勢いにも屈せず、和にも応ぜず、まさに神のようであり、私は未だこのような鼠を見たことがありません。」

 

古猫は言います。

「あなたの和は自然の和ではありません。作為的な和なのです。

敵の鋭気をはずそうとしても少しでも念が表に出れば敵はその気を知ることになります。

意図的に和の心を持つ事は気が濁って情に近づく事になります。思って為すということは自然ではありません。

自然でなければ妙用(すぐれた技)はどこから生まれてくるでしょうか、決して生まれません。

何も思わず、何も為さず、感にのみしたがって動けば象(かたち)は無く、象(かたち)が無ければ天下に敵は無くなるのです。

 

 

つづく

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