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なぜ現空研空手をやると強くなれるのか


現空研の稽古体系は基本的には週に一日を想定している。
しかも、ビジネスマンが多いので、毎週来れない方もいる。

しかし、それでも皆確実に強くなっている。
殆どの会員はそれを実感しているはずだ。

30代、40代から始めても、おそらく1年後遅くとも2年後には自分の20代の頃より強くなっているという実感を得ているはずだ。
まして10人組手を達成し、黒帯びを獲得した者は生涯で最強の自分の実感を得ているだろう。

現空研では超人的なハードトレーニングを行っているのか。
それとも、最新式のハイテク器具を使って完璧なトレーニングプログラムを実行しているからか。

全てノーだ。
初めて、稽古に参加した者は、かつてスパルタ式の稽古を体験したことがある者だったら、スタミナ的には余裕を持って稽古のメニューを消化できるだろう。

もちろん過去に運動らしい運動を一度もやったことがないという人にとっては、最初は全工程をこなすのは難しいとは思うが、1ヶ月もすればその大量の汗や運動後の疲労感を心地良く感じる程度だ。

では、こうした稽古でなぜ、これほどまでに強くなれるのか。
その秘訣の一端を公開しよう。

話を分かりやすくするために、空手だけではなく、人が何かを学習するときのきっかけというものを考えてみたいと思う。
日本人なら大半の人がチャレンジし、多大な労力や費用をかけながら、ものに出来なかったものの代表、
そう、「英会話」を例にとってみよう。

英語の勉強は、義務教育でも必修になっているし、入学試験でも重要な学科である。
現在ではインターネットを駆使したり、ビジネスにおいても必要不可欠な能力だ。

それにもかかわらず、大半の人はこれを苦手にしている。(私も苦手だ)
しかし、回りを見渡すと何人かの英会話をものにしている人達を見つけることができるだろう。

この人達はなぜ英会話をものにできたのか。
英会話が達者な人達は子供の頃から特殊な環境にあった少数の人達を除くと、皆、英会話の必要性に迫られた環境におかれていたという事実がある。

海外の転勤を命ぜられたとか、外国人相手に商売をはじめたとか、好きになった人が外国人であったとか。
同じ、労力や費用を使ってもこのようにおかれた環境が切羽詰ったものであるかないかでその修得の度合いは天と地ほどの開きになるのである。

日本人は義務教育でこんなに多大な時間を英語に費やすのにこれほど英語をしゃべれない国民は例が無いと言われている。
多分それは当たっているだろう。

なぜなのか。その理由は簡単だ。
日本で暮らすかぎり切羽詰った英会話の必要性がないからだ。

つまり、必要性が無い限り殆どの努力や練習はものにならないという原理があるのだ。
しかも、その必要性は極めて具体的でなければ威力はない。

漠然とした、教養を高めるため、といった程度のものでは効き目はない。
来月日本に来るアメリカの美人留学生(美人でなくても良いが)の案内役をおおせつかった、というくらい具体的なものであれば一番効く。

これは空手とて同じである。
同じ、正拳の突き一つを取っても、それが効くための必要性がなければ、形だけの稽古になってしまう。

そんな空虚な反復を毎日何時間もくりかえしたところ無意味とまでは言わないが極めて効率が悪いことは英会話の勉強の場合とまったく同じだ。

ただ、空手の場合は、英会話と違って具体的な必要性ということになるといささか物騒な話になる。
昔のように、決闘とかあだ討ちといったような合法的かつ切羽詰った必要性なんて現在の日本には存在しないからだ。

さて、と。
これからが今回のテーマの核心になってくる。

空手に必要な具体的かつ切羽詰った必要性とは何であろう。
突きを例に考えてみよう。

それは、実際に相手に当たった時、効く突きが必要という場面を具体的にポンと目の前に見せることである。
私は初心者に極めて早い時期に一度全力の「ド突き合い」を体験させることにしている。

もちろん、安全性を確保するために防具を付けさせて、顔面は禁止で行う。
こういった経験の少ない初心者は、ある種のカルチャーショックを受ける。

その程度は個人のレベルや過去の経験によって差はあるが、それぞれのレベルに応じて新鮮な体験であるはずだ。

生身の拳の弱さや自分のスタミナのなさ、殴ることの難しさ、具体的な殴られる感触。
こういったものがたとえ防具で保護されているとはいえ、強烈な感触として記憶される。

こうして、初心者は自分に何がどの程度不足しているのか、強い人はどの程度強いのかといったことを体で感じ取ることができるのである。

一度でもこうした体験をすれば、努力の方向がわかる、努力の必要性もいやというほど体が知ることになる。
来月、同じ体験をしなければならないとしたら、英会話でいえば、来月美人留学生が来るというのと同じくらいのインパクトになる。

つまり、同じ練習、稽古をしても中身の濃さがまるで変わってくるのだ。
具体的な努力目標を常に持つということが、短時間の稽古を強烈に効率的なものにする。

現空研の短時間の稽古の中身を充実させるための秘訣はこうした体験と場面設定を常に効率的に配置するところにある。

それから私が心がけているのは、常に打撃の具体的イメージを表現して稽古させるということだ。
例えば顔面の突きにおけるイメージ、中段の前蹴りにおけるイメージ、上段の蹴りであれば、当たった目標がその後どういう経過をたどるかといったことまでイメージさせている。

勿論対象はボールやチーズや豆腐や粘土といった物に置き換えて説明しイメージさせるのでそんなに血なまぐさい説明にはならない。

また、話を英会話にもどすが、どんなに優れた教材を使っても、またハイテク機材を使っても、それが意味をなすのは、具体的かつ切羽詰った必要性がそこに存在するという状況である。

空手でも同じだ、どんなに優れたトレーニングメニューでどんなに優れた機材が揃っていても、それを生かすも殺すも具体的な必要性あるいはそれをイメージできるシチュエーションを構築できるかにかかっている。

それは、言葉を変えればモチベーション(動機)の構築と維持であり、それをより具体的、生理的に自分に働きかけるように工夫できるかということである。
モチベーションの管理と稽古を効率化させる具体的な努力目標の提示を効果的に示すことが短時間での稽古で最大限の効果をあげることにつながる。

こうした1週間単位の短期のモチベーションをより体系的な稽古に昇華させる原動力が組手審査である。
特に10人組手という中期の切羽詰った目標が限られた稽古時間をより有効に使おうとする心理を生み、結果として中身の濃い、精神を集中させた稽古の原動力となる。

現空研の10人組手は、現空研独自のルールによって行われる。
詳細は省くが、このルールでの組手は相手との戦いであるとともに自己との戦いでもある。

これを制するということは自己で自己を評価できることにつながり、それは言葉を変えれば真の自信の誕生ということである。
また、他人の10人組手を間近に見、その息づかいや汗の飛散の真っ只中にいることにより、強烈なイメージトレーニングのソースを与えられることになるのである。(もし自分であればどうするかというこれも切羽詰ったイメージトレーニング)

これが日常の稽古を自分にとって意味のあるものにし、結果的に最小の時間で最大の効果をあげるトレーニングとなるのである。

原理は単純である。

である。
これをシンプルな形で具体化するということが現空研空手のトレーニング方法の真髄であり、理念の実現化への近道であると私は信じている。

ただ、以上の事が全ての空手の最強トレーニング方法だと主張するものではない。
仕事や家庭を持った普通の人々が限られた時間で効率的かつ安全に強くなるための一方法論としての提案である。

もう一つは生涯空手という観点である。
私は自分の体験から生涯空手の一番の敵は体力の低下ではなくモチベーションの低下にあるという確信がある。

英会話の話にもどるが、具体的な必要性がなければ、長期間にわたってモチベーションを維持できるわけがない。
残りの人生で一度も英語を話す機会がないとすれば誰が英会話の勉強をするだろうか。

空手とて同じである。
生涯現役という気持ちがなければ稽古を続けられるわけがない。

逆にこうした気持ちが継続するかぎり、稽古は生きたものになり、そこに向上の原動力が生まれる。
以上が現空研で空手が強くなる理由である。

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