ヒット カウンタ

みかんの食べ方

10個のみかんを食べる方法は2つの流儀がある。
一つは美味しそうなものから食べる方法。

もう一つはまずそうなものから食べる方法である。
まずそうなものから食べるというのは、最高のものを最後にとっておきたいという素朴な本能のようなものが我々にあるからだろう。

まずそうなものから食べるという方法は、腐りやすそうなものから消費することによって全体を生かしたいという合理的な考えにもつながる。
たしかに合理的だ。

スーパーマーケットの品物も賞味期限の迫ったものをなるべく前面に押し出して早くさばこうとしている。
これも合理的な判断だ。

しかし、ある個人にとってこの選択は常に最善の方法なのだろうか。
まずそうなものから食べるという選択を人生の指針としている人は、一生の間、最低のものを食べ続けて死ぬわけである。

死んだ後、おいしいものがどっさりと余っている状況になるかもしれない。
膨大な遺産を残しながら信じられないような質素な生活を送って亡くなった老人の話など枚挙に暇がない。

日本は質素倹約を美徳とする儒教の影響が強く、それが物を大切にするという思想につながり、大事な物は後にとっておくという行動パターンが定着しているのだろう。
現在の世界の金融危機も、日本のように不況になると貯金に走る国民性と、借金して消費を続けるアメリカとの経済スタンスのギャップが根にある。

美味しいものから食べるという哲学を持った人は、一生最高のものを食べ続けて死ぬわけである。もちろん最高というのはその人が得られる範囲でという制限はあるが。
アメリカ人の楽観主義、消費性向のコアにあるのがこの考え方であろう。

これはどちらが良いというのを結論付けるのはなかなか難しい。
理科系の人はこういう選択の場合、得られるメリットの期待値を最大化する行動が理想的だと考えがちだ。

要するに、みかんが10個あった場合、すぐ腐りそうなやつは無条件で早めに食べる。
その他は、自分の必要度(あるいは欲望)と美味しさの度合い(測度)を変数とした関数を考えて最適解を考える。

言葉にすると面倒くさいが、要するに最も合理的な方法があるはずだという信念を持っているのが理科系人間の特徴だ。
これが往々にして墓穴を掘る。

10個のみかんは現時点での条件である。
明日になれば100個のみかんが誰からか送られてくるかもしれない。

あるいは寝ている間に誰かに食べられるかもしれない。
まあこういう事を言い出すは話が発散しすぎて議論にならなくなる。(本当は一番重要な要素の可能で高いのだが)
仮に10個は不変だと仮定しよう。(この時点でかなりマニアックな領域に入っている)

問題は最適解を得るのに使う労力だ。
最適解を得るというのは、ある種の人々にとってはとても感動的なものなのだ。

その内容がどんなに取りとめのないことであっても。
つまらないゲームやパズルに夢中になる心理と同根のものがある。

10個のみかんを食べる最良の方法に一旦のめりこんでしまうと、そこに費やす労力やコストや時間の意識が飛んでしまう。
革命的な最適な10個のみかんの食べ方の法則を発見した時にはみかんは全部腐っているかもしれないのに。

価格COMというサイトがある。
最も安い商品を探せる便利なサイトだ。

特定の商品で検索すると、それう安売りするショップが価格のランキングとともに列挙される。
送料を加味してのランキングも可能だ。

私も利用したことがある。
このとき思ったのだが、ここに列挙された価格は特に上位はその差は本当に僅差だ。

しかし、人間の心理はわずか1円でも安い方を選ぼうとする。
良く調べると着払いの費用とかポイントのつき具合とか、数量をまとめるともっと割引されるとか、最適解は簡単ではない事に気づく。

そんなレベルまで調べだすとあっというまに1時間や2時間は経ってしまう。
1円安くするためにこんなに労力を使うのは全然合理的ではない。

価格COMだけではない。
航空券などを買うにも、ネットで調べるといろいろ得点のある買い方ができる。

ありとあらゆる買い物がインターネットを通じてより有利な条件を提示してくれる。
これらのサービスは、こうしたサービスを利用しない人の割高な価格設定による犠牲の上に成り立っているわけだから、利用しない人が損をするという基本構造になっている。

それが理解できるためまた最適解を求めるジレンマに益々陥っていくというわけだ。
ではいったいどうしたら良いのか。

全て与えらた条件は有限であるという認識に立つということが、最も大切だと思う。
まず最初に人生に与えられた時間は有限であるということ。

その有限の時間をいかに使うかがその人の人生観そのものになる。
そして、時間は勿論のことお金や物品など自分に関わる全てのものは有限であると前提のもとその相対的な価値や量を常に意識することが大切だと思う。

みかんの食べ方の最適解を求めるのは無意味であるが、仕事を選択したり、家を購入したりすることは可能な限り最適解を求めるべきだ。
つまり、人生を左右すると考えられる事については、可能な限りの知力を尽くして最適解をもとめるべきであるが、そうでない場合に最適解のジレンマに陥ることは意識的に自制すべきだ。

しかし、実はこれも、結構難しいという事が分かる。
なぜなら、我々にはもう一つの大きな規範となっている行動原理が存在するからだ。

それは「首尾一貫性」
これはこれですばらしい行動原理であることは間違いない。

しかし、往々にしてこの首尾一貫にこだわったために大局で失敗したという例は歴史を見ると数多く見出せる。
太平洋戦争での日本の戦い方は基本原則が「自分の損害を最小にする」という事だという事が読み取れる。

彼我の国力(生産能力)の差は、日本軍の少なくとも指導層には絶対条件としてインプットされていた。
ハワイ空襲からミッドウェー海戦、そして最後のレイテ海戦、マリワナ海戦でも、大決戦といいながら、個々の戦術では、敵には大打撃を与えつつも最終的には自分の被害を最小限に留めたいという行動にでている。

ある意味では日本軍の行動は首尾一貫している。
これが結果としては裏目にでたのであるが、ではどうすれば良かったかという議論にはここでは入らない。

日露戦争では違っていた。あのロシアのバルチック艦隊との決戦は、「自己の損害を最小にする」という基本原則はまったく見て取れないからだ。
勝てない相手と刺し違える事にしか日本を守る道はないという決意と行動がそこに見られる。

圧倒的な不利な立場での戦い方は正攻法では勝ち目がない。
日本海軍のとった方法は、戦術の原則からは大きくはなれた懐に飛び込んで刺し違えるという恐るべき作戦だった。そういう意味ではそれまでとは全く首尾一貫していない。

一方ミッドウェー海戦では、その首尾一貫性を変えたのはアメリカの方だった。
日本は日露戦争のときとは真反対の立場に立ったのだ。

日本軍は圧倒的な有利な立場で完全勝利を目指してあくまで正攻法を貫き、不運も重なって結果的に大敗を被った。
首尾一貫性というのは、実は努力してそうなるといった大層なものではなく、人は本能的にこれを好む傾向にあり、努力しない場合は大体首尾一貫性を保つ方向に傾くものなのだ。

方針を変更するというのは通常良い意味には使われない事が多いのだが、その良し悪しは別としてもそれはエネルギーを要することであり、努力も必要である。
状況の変化に柔軟に対応するということはダイナミックな判断力が必要で精神的なエネルギーも使う。

方針の変更も考慮した後での一貫性維持であれば結構なことだが、人(国も)は極限状況では、多くの場合変更方針は選択しない事が歴史は物語っている。
変更方針とは、新たな最適解を求める行動だが、理想的に行っても時間や労力が膨大にかかり、ましてやシステム(意思決定機関等)に不備があるとしたら、永久に最適解は得られない。

では、話は戻ってしまうのたが、結論として正しい「みかんの食べ方」の正解は得られるのだろうか。
「みかんの食べ方」は、一般化すれば「目の前の問題の解決の仕方」であるという事はあらためて言う必要なないと思うが念のため申し添えておく。

「空手の稽古の仕方」とか「勉強の方法」とか「仕事のこなし方」に置き換えても良い。
じつは、この議論は私の昔の著書デジタル版徒然草の第一章のテーマであった。

1985年(昭和60年)雑誌パソコンワールドの9月号の連載第一回目の題材が「先憂後楽ということ」であり、小題として「みかんの食べ方」として論じてある。
20年以上前に同じ内容で論じているが最終的な結論は現在考えているものとは少し違う。

次回は20年前の結論も紹介しながら現在の考え方を述べてみたいと思う。

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