ヒット カウンタ

ラストサムライと武士道


今日テレビを見ていたら、俳優の渡辺謙さんがでていて、今話題になっている映画「ラストサムライ」に関してインタビューを受けていた。
大変印象に残ったのが「(今後アメリカで仕事をするようなことがあっても)日本人のアイデンティティーを忘れないようにしたい」という彼の言葉だ。

何となく嬉しかった。
ラストサムライは私はまだ観ていないのだが、現空研会員の方でこれを観た方からメールで感想をもらったり、テレビなどの紹介で概要は承知している。

その主題は武士道である。
現在の日本には武士はいないので、現代的に言えば武道ということになる。

この武士道(武道)という言葉を肯定的な意味で聞くことは現在の日本ではほとんどなくなった。
現在といってもここ数年という意味ではない。

昭和23年生まれの私でも物心ついてから今日まで、学校などの公の場で武士道という言葉を生きた社会規範あるいはお手本として聞いたことは僅かな例外(※)を除いて記憶にない。
戦後の日本は、戦争を連想させるものは味噌も糞も一緒に否定してきた。

武士道(武道)は好戦的で反動的な危険思想であるという暗黙のコンセンサスのもと、その本来の精神が真正面から取り上げられて教育の現場や社会生活の規範として陽の目を見ることは少なくとも私の周りで見ることは無かった。

そもそも武士道という言葉が世界に広まったのは、五千円札の肖像で有名な新渡戸稲造が自身英文で書いた「武士道(BUSHIDO The Soul of Japan)」が欧米で広く読まれた事にあるらしい。
何しろこの「武士道」は日本語版のほうが後から出版されているのだ。

当時のアメリカ大統領セオドアルーズベルトはこれを読んで感動し何十冊も購入して知人に配ったそうである。
また、日本が日露戦争に勝ったときも、日本軍の精神的基盤を知るためにヨーロッパでもかなり読まれたらしい。

当時の欧米人が日本人の精神構造を知るために読んだ本はこの武士道の他ハーン(小泉八雲)の「神国日本」あるいは鈴木大拙の禅に関する書籍だったと思われる。
これらは皆素晴らしい内容であるが、肝心の日本人はあまり興味を示していなかったように思う。

理由の一つに、近代日本は明治維新という大きな革命を基盤として成り立っており、それは戦前、戦後を一括りにして武士社会からの決別という基本構造を日本人が背負っていた事を挙げることもできる。
西洋人であるハーンは別として新渡戸稲造にしろ鈴木大拙も、西洋人の立場に自らを置き換えて神秘の国日本を紹介するというスタンスを共通に持っている。

特に新渡戸稲造は自身がクリスチャンであるという事や語学だけでなく広く欧米の文化を熟知しているということから、欧米人なら当然疑問を持つであろうと思われる日本文化の謎を先回りして解説している節がある。

そうした状況では、日本を明治維新の前、すなわち武士文化真っ只中の日本とそれを一応形の上では否定した明治維新の後を区別して解説したのでは、そもそも日本自体を殆ど知らない欧米人にとってはちんぷんかんぷんになるという事を恐れたのであろう。
したがって、当時の日本人にとっては基本的なコンセンサスである儒教的な礼節に関する記述などはいわば釈迦に説法の感があったのかもしれない。

日本人にとっては、日清、日露戦争の日本軍は、武士ではない。
明治維新という革命によって、それまでの職業軍人であった武士階級を否定し、今まで帯刀を許されることのなかった農民、町人を徴兵によって集めて作られた近代的(欧米風)な軍隊が日本軍なのである。

したがって、日本軍の精神構造を武士道で語られてもピンとこないのも無理からぬことである。
一方欧米から日本を見た場合、キリスト教をバックボーンとして持つ彼らにとっては、日本という不可思議な国の中の小さな政変にしか見えない明治維新の前と後なんかを区別して日本文化を考えるレベルではなかったと思われる。

したがって、日本軍や日本人の多くの不可解な行動の疑問を解く大きな糸口をこの「武士道」に求めたとしても少しも不思議ではないのだ。
明治維新もそうであるように、あらゆる革命は現政権の腐敗や弱体化、組織の硬直化から来る矛盾解消への要求が大きなエネルギーとなりこれが爆発して起こる。

したがって、そのスローガンや旗印となるものは現体制およびその思想の全面否定となる。
しかし、その全面否定として自覚されているものでも、それを全く異なる文化圏から見れば、そのよってたつ文化や哲学はあまり変わっていないものである。

例えば、中世ヨーロッパの宗教論争などは、当事者にとっては天と地の開きがある考え方だったのだろうが、我々から見れば同じキリスト教の中の争いであり、その論点は余程詳しく勉強したものでないと分からない。
そういった意味では、明治維新後の日本軍もそれ以前の侍も同じ武士道で解析するのもあながち間違いではないのである。

というより、むしろ末端枝葉の贅肉を落とした本質論としては正しい見方であったとも言える。
武士道に関して言えば、新渡戸稲造とまったく異なった視点で語られたものの代表が佐賀鍋島藩士の山本常朝による「葉隠」であろう。

これは、西洋人など異なる文化圏の人間に読ませるためではなく、日本人同胞に武士道を説くための講話集なのだ。
したがって、ここでは同じ文化圏の誰も知っている基本事項をあらためて述べるようなことはない。

知識としては知っていても、理屈ばかりで実行に移せない怠け者や、女や金など下世話な欲望ばかりに関心がいく今風の若者を諌める気持ちで書いたものである。
したがって、表現はイロニーに満ちたものになるし、極論や逆説的な表現が多くなるのは納得がいく。

内容は決して難しくはないのだが、これを適切に解釈するには儒教的な当時の標準的な日本の価値観を知っていることが前提になると思われる。

「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮すべきなり」
なんていう言葉は、一見現代のうすっぺらな利己主義と重なるが、これは「武士道というは死ぬ事と見付けたり」という表の言葉に対してのイロニーであって、こうしたひねった表現は、共通のコンセンサスとしての儒教的な教養を背景にしていなければ通じない言葉である。

葉隠は赤穂浪士たちのあだ討ちも批判している。
ぐずぐずしているうちに吉良が死んだらどうするのだ、とか本懐を遂げた後うだうだしないでさっさと切腹するべきだった、とか武士道のお手本のように言われている赤穂浪士を決断が遅くて優柔不断の集団だと言わんばかりにこき下ろしている。

これなども、あだ討ちや切腹といった行為そのものが共通のコンセンサスとしてなければ意味が通じないばかりか、単なる人命軽視のような軽薄な解釈をされるかもしれない。
若い頃三島由紀夫が現代文に訳し、また解釈した「葉隠入門」を読んだことがあるが、これは昔の日本人(武士)なら共通に持っていた常識をもはや知らなくなっている日本人に、その逆説になる根元の考えを掘り起こして解説してくれた大変面白い本であった。

しかし、これでも当時の日本と現在の日本を考えた場合特に若い人たちの意識はかなり開きがあり、現在ではこの本の面白さはどれくらい伝わるかは分からない。

話は元に戻るが、ラストサムライに限らず、最近外国人の口から武士道が語られることが多くなった。
そして、その多くは「武士道」に敬意を払ったものであり、あるいはその考えに良い意味で感化されていると感じさせるものである。

ヒクソングレーシーがプロレスラーの高田選手と戦った時もインタビューで武士道について、自分達の精神的なバックボーンであるというような意味を語っていた。
空手や柔道を稽古している外国人は「武士道」に魅せられた者も多い。

彼らにとって、空手や柔道を習うことは武士道を習うことをも意味するのだ。
しかし、現在の日本は、武士道という言葉は死語になりつつある。

外国人から「武士道」とは何ですか、と問われたときの日本人の平均的な回答はどんなものだろうかと危惧する。
三島由紀夫の葉隠入門は、江戸時代のイロニーを昭和のイロニーで説いた大変ユニークな本であったが三島が想定した読者層は恐らく当時の男性週刊誌の愛読者程度であっただろう。

しかし戦後から現在に至る武士道離れは、時を経るにしたがってますます進んでおり、もはやこの葉隠入門は平成のコンテンポラリー(同時代的)なイロニーとしては捉えられず、分かる人だけわかるというクラシック(古典)の世界になっている気がする。
新渡戸稲造の「武士道」は本来外国人に向けて、日本人が誇りを持って、しかし分かりやすく日本文化を説いたものであり、そこには儒教的、仏教的な何らの背景(教養)の全く無い人達を読者として想定していることが見て取れる。

しかし、現代の日本人はもはや、新渡戸稲造の時代の日本人ではなく、むしろ彼が想定していたこういった外国人に近いのではないだろうか。
いや、儒教的な背景がないという点は共通かもしれないが、では外国人がもつ別の文化的背景を持っているかと言えばこれまた全然期待できない。

義務教育でこれだけ英語をやりながら、殆どの人が簡単な会話すらできない。
音楽にしろ絵画にしろ国際的なパーティーで自分の言葉で自分の感想を述べる事ができる人はホンの一握りだ。

それなのに、日本の伝統芸能や武道の知識もさっぱりダメ。
戦後の教育には、日本人が誇りを持って学習するべき思想的な大黒柱は全くなかった。

平和とか自由といった断片的な美辞麗句は沢山聞かされたが、自分の主体性と国の主体性に連続性を持たせてくれるような教育は一切無かった。
武士道という素晴らしい伝統も皮相な平和主義で毛嫌いされるか軽薄な国粋主義に利用され、新渡戸稲造が説いたような本質的な意味で語られることも殆ど無かった。

本当に情けない事である。
今からでも遅くない。

我々日本の武道を志すものは、最低限自分の行っている武道(武士道)そしてそれを生み出した日本の心を、それを全然知らない、背景を持たない人に自分の言葉で語れるようでありたいものだ。

ラストサムライが日本の武士道をどのように表現しているのかは、私はまだ観ていないのだが色んな意味で興味深く楽しみにしている。
また渡辺謙さんがどのような武士を演ずるのかも関心がある。
ぜひ鑑賞してみたいと思っている。

※唯一私の母校修猷館の国語の教師小柳陽太郎先生が武士道を説かれていた事を記憶している。

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