ヒット カウンタ

個人の利益が全体の利益になる話

 

多くの人がそうであるように、私も強くなるために空手を始めました。
はじめてみると、それに付随する多くの魅力にも気が付きます。

鍛えることで向上する身体能力や、苦痛に耐えることで得られる様々な力です。
そして、日本、広く解釈すれば東洋の伝統あるいは歴史といったものに対する魅力も感ずるようになりました。

単純(そうに見える)動作を号令に合わせて黙々と続けるといった、一見不合理に見える稽古方法。
身体の一部を武器に変えてしまうという人間改造。

殆どの動物が生まれついた遺伝的資質にのみ左右される生存のファンダメンタルである「強さ」を、
後天的な操作によってくつがえすことができるということを身をもって体験した感動は、
やったことのない人には完全には理解できないでしょう。

「強さ」という概念は「暴力」といった否定的な価値観をともなった言葉によって表現されることが多いです。
(ここで言う強さは狭義の身体的強さを指します)

なぜならば、「強さ」が実は生存のための尤も基本的な要素であることは、内心では誰もが感づいているからです。
しかも、その「強さ」は先天的なものであると多くの人は思っていますから、これを肯定することはあまり、楽しいことではありません。
「弱い」自分を肯定するには「強さ」を「暴力」といった否定的な概念で捉えるほうがプライドを保てるからです。

昔、あるボディービルのジムで腕相撲のめちゃくちゃ強い人と雑談しているとき、この人から聞いた次の言葉は印象的でした。
この人は腕相撲の専門家というか、もっぱら腕相撲で勝つことを目的でトレーニングしている人です。

「会社や回りで腕力のありそうな人に(練習のため)相手してもらいたいのだけど、誰も無関心なふりしてやってくれないんだよね。」
腕相撲は、負けると悔しいらしいのです。

かけっこをしたがらない子供達も似たような心情かもしれません。
人間の身体能力のファンダメンタルに係わることは、ある意味ではタブーなのかも知れません。

人は、特に男の子は子供のころから何度かは、力によってプライドを傷つけられた経験を持っています。
そして、それに対するを直接的な対抗手段を持っていないことから、何らかの理屈をつけて自己を正当化しています。

そして、その正当化を補強する社会情勢もあります。
特に戦後の日本社会には顕著です。

社会の問題は置いておくとして、

しかし、この「強さ」の否定を正当化しやすくしているのは、こういった「強さ」が先天的なものという思い込みが大きな要素になっていることは疑いありません。

空手をやりはじめて、最初に感ずることは、自分の身体能力の劇的な向上に対する、驚きと感動です。
つまり、生まれつきだと思っていた「強さ」に対する概念の崩壊がおこるのですから。

「強さ」は後天的に得ることができるということを、多くの人が知れば、もっとフランクに強さについて語ることができるようになるかもしれません。
「強さ」は、簡単にとは言いませんが、自分の意志で獲得できるものなのです。

一方、強さというものが、対人的なものという限定をすれば、人類全てが強くなれば、客観状況は何も変わらないじゃないか、という屁理屈をこねる方がいます。
確かに強さというものは相対的な問題ですから、社会全体で見ればゼロサムゲームの様相を呈するわけです。

しかし、
と私は反論したい。

空手は個人の資質を向上させるものです。
資質というものを個人の生存や生活の質を高めるための利得というように捉えると、空手の稽古は個人の利益を追求する行為です。

自由経済は個人の利益の追求が社会全体の利益の向上につながるという基本思想をもっていますが、
私は強さ(武道)に対してもこの理論は通用すると見ています。

問題はこういった個人の利益の追求が全体の利益に対して、ポジティブに働くかネガティブに働くかということです。

ここに3人の人がいます。

1人は個人や社会に対して建設的な思想をもった人です。回りとのトラブルもいままでほとんどありません。
話を単純にするため「良い人」と仮によびます。

もう1人は、そこそこ努力もしますが、なまける気持ちも持っています。やや善良といったタイプです。殆どの人はこのタイプでしょう。
「普通の人」と仮によびます。

最後の1人は、個人や社会に対して、破壊的な思想の持ち主です。いわゆる犯罪予備軍です。
「悪い人」と仮によびましょう。

この三人は話しをわかりやすくするためにステロタイプ化したものであることは断わるまでもないですよね。
この3人にとって「強い人」はどういった存在なのでしょう。

「良い人」にとって「強い人」は、あまり問題になりません。そもそもトラブルもあまりないのですから。普通の人と同じように接するだけです。

「普通の人」にとって「強い人」はちょっとは気になる存在です。酒に酔ってむやみにからむことはよそうかな、とか考えます。しかし、特にこまる存在ではありません。

「悪い人」にとって「強い人」はどうでしょうか。
これはとてもいやな存在です。詐欺でだまそうとか、脅して金を取ろうということを考えた場合、失敗した場合のリスクが大きいからです。

「良い人」や「普通の人」にとっては、あまり問題にならない「強い人」が「悪い人」にとっては脅威になる。
つまり強い人が増えることは、全体として「悪い人」が生息しにくい社会になるのです。

ここに強い人が増えることに対する社会のインセンティブがあります。

その上、空手の稽古は、苦難に耐えることで何らかの利得を得るといった鍛練の原理や、打たれることで他人の痛みも知るといった最も原始的かつ根源的な相互理解の原点に触れる体験もできます。

怪我や、事故といったことにも神経を使うようになりますし、肉体や生命といったものに対しても文字どおり肌で触れる体験を通し感性を養うことができます。

自分の利己的な欲求で始めた空手が、結果的に社会全体のためにもなるとしたら、こんなすばらしい事はありません。
稽古は自分のため、そして社会のためなのです。

ここで一つだけ心にとめておかなければならないことがあります。
それは「悪い人」が「強い人」になる場合です。

この場合に「強さ」が「暴力」となるのです。
これは絶対に避けねばなりません。

今更当たり前のことじゃないか、と思う人は正常な人です。
当たり前のことが当たり前でなくなっているのが現代ですから、あえて原点に返って言ってみました。

ひとたび身に付けたら人を殺傷する力を持つ空手です。
自戒を込めて言いますが、空手を教える人達が一番注意を払わなければいけない点です。

空手は多くの先人のりっぱな思想を背景に生まれています。
徒手空拳による護身と平和を願う気持ち。

その精神は表現は違ってもどの流派にも共通したものです。
やさしくなるために強くなるのが空手の道です。


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