現空研 新試合規則の真意 その3

2010/05/07


安全性の確保は武道(武術)の稽古においては最重要課題である。
安全性を考慮しない荒々しい稽古形態や試合は一見勇壮で男らしい。

見るものを恐怖のどん底に陥れるような稽古様式が最強の人間を作るかといえばそれは大きな間違いだ。
たとえば昨今のプロの格闘技の中では倒れた相手の頭を踏んだり蹴ったりすることが許されているものがある。
あるいは、素手で顔面を殴りあうのを許す格闘技もある。

こうしたものは興行で行っている分には確かに刺激的でもありそれなりの存在意義があるかもしれない。(私は興行であっても反対の立場だが)
しかし、もしそれを武道、武術の稽古システムとしてみた場合は大きな欠陥がある。

第一に生命や健康を危険に晒すというリスクをとってまでそういう稽古を行う人間は少ないという点。
つまりこうした体系の武道人口はその母集団が必然的に小さくなってしまう。

やたらに凶暴(強さとは無関係)な性格を持っているか、あるいは危険に対する感受性が薄い(いわゆる鈍い奴)特異な人間の多い少数集団になる可能性が高い。
要するに、正常な感覚を持った、あるいは自分の潜在能力を過小評価している、控えめな人たちを入り口で遮断してしまうのだ。

ダンスや体操、あるいは球技など格闘技とは遠いスポーツをやっている人の中でもしこの人が空手をやっていたらさぞ強くなっただろう、と思う多くの人たちがいる。
彼らの中には興味はあっても空手は怖い、あるいは危ないといった感想を持っている人たちがいる。

多くのこうした普通の感覚の持ち主こそ空手をやってもらいたいし、そうすれば隠れた多くの才能が発掘されるだろう。
空手の安全性の確保をするためには二つのアプローチがある。

一つは防具やサポータ類の厳選とそれの運用方法である。
防具については今回は触れない。

もう一つの重要なアプローチがルールの整備である。
今回はこの中のルールについて考察を深めている。

いかに楽に相手の命を奪うかといった事に集約される武術の本質は相手の安全性を剥ぎ取る事である。
安全性を剥ぎ取る事を目的とした武術の稽古で安全性を確保しなければならないといった根源的な矛盾を含んでいるのが武道なのだ。

「寸止め」だとか「顔面突きの禁止」とか「グローブ」の着用といったものは全てこの矛盾した二つの要求の妥協の産物でしかない。
高度な安全性、それを掛け声やスローガン、心構えだけで確保しようとしても大変難しい。

空手人口の全てが高い倫理観、道徳観そして強い精神力を併せ持つ人格者であれば良い。
でも空手はそういう人になるために稽古しているのであって修行の途中である空手家は私も含めて皆こうした人格の形成途上(つまり人格者ではない)の凡人の方が遥かに多いのだ。

Life finds the shortest way.
これは個々人にとっては「ずる」をする感覚である。

人間は基本的に弱い存在である。
だから「ずる」をする。

楽して勝ちたい、楽して儲けたい、楽して名誉を得たい。
この心情に真正面から立ち向かう修行僧のような考えは私は否定はしない。

否定しないどころか尊敬する。
しかし、楽して勝てるようなルール、しかも人為的なルールということになれば、実践者に修行僧を強制するルールであればそれはルールに欠陥がある。

そのルールの中では楽をすることができない。
あるいは楽をしているつもりが実は王道を歩んでいることになる、といったルールであれば、「ずる」をする必要もないし、そもそも「ずる」といった概念も生まれてこない。

そのルールに従うことで空手の王道を歩むことになるルール。
これこそが最も理想的なルールだと言える。

しかし、安全性を確保してなおかつ「ずる」のできないルール、これで全てが解決できる。
と思ったらとんでもない。

つづく

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