現空研 新試合規則の真意 その1

2010/04/27


第3回現空研大会は新規則で行う。
なぜ、この規則を作ったかをお話しよう。

根源的な話をするとそれは「人の弱さを克服する」ためである。
あの有名な映画ジュラシックパークの中で「Life finds a way」というセリフが出てくる。

生命は道を見つけるという言葉だ。
映画の中では恐竜が繁殖しないようにメスだけを作ったことに対して数学者のマルコムがつぶやく言葉だ。

この言葉は生命の想像を絶する生への希求、パワー、そして生命自体の本質を深くえぐった言葉である。
生命はそれを存続させ、繁栄させる事を第一義に行動するようにプログラムされている。

プログラムされているというのはあまりに他力的な解釈かもしれない。
そのように行動する個体のみが様々な強敵や環境の変化に耐え、あるいは適応して生き延び、結果としてそれに沿う行動様式プログラムを持つものだけが生き延びてきたというほうが正確かもしれない。

そのプログラム(もしそういった形であったとして)は現在の人間がどんなに英知を尽くしてもその全ては分析し尽くす事ができない程巧妙で巧緻で神秘的でさえある。
個々の生命は個々の生への希求で行動するがそれが、意識的であれ、無意識であれ、その種の集合体としても生を目的とした合目的的な行動となるようにできている。

人間で言えば個人の利益の追求(本能)が、どんな紆余曲折を経ようと最後には人類の利益の追求につながっているかのように。

おいおい、ちょっと待てよ。
話がえらく大きくなってきたのは許すとしても個人の利益の追求が人類の利益の追求になるなんてアダムスミスの理論の幼稚園版みたいなこと言うなよ。
経済学の初歩で習うような話じゃねーか。

こんなネコパンチのような反論に付き合う気は全くない。
脳内の快楽物質の存在というもう一つの切り口で感想を持った者はもう少し黙って聞いてみようという寛大な気持を持ってくれたと思う。

そこいらへんの議論になるとえらく面倒になるので結論を先に言っておく。
「人間は快楽のためなら大抵の事はやってしまう」

何でもとは言ってはいない。
大抵の事はやってしまう。

強いやつは、多少我慢の幅が広い。
弱いやつは、「大抵」が「殆ど」に近くなり、「何でも」というやつは犯罪者になる。

つづく

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