ヒット カウンタ

なぜ防具をつけて打ち合うのか


現空研では、ある程度基本が身につけば、早い段階で防具をつけて打ち合うという体験をしてもらう。
最初はいわゆる体験の範疇で本格的な稽古ではない。

本格的な稽古に入る段階(帯に色が着いたレベル)より前にこういった体験をさせるのには意味がある。
それは、格闘の原点を肌で感じてもらうということだ。

戦後の反戦、平和という錦の御旗のもと、あらゆる格闘的な事柄は好戦的というレッテルのもと社会から抹殺されていった。
これが全て間違いというわけではないのだが、現代日本では子供達の世界から格闘技的な遊びが殆ど消えてしまっている。

私の世代(地域性もあるが)では、子供の頃は殴り合いや取っ組み合いは日常茶飯事であった。
遊びでも、相撲やプロレスごっこなどは最もポピュラーなものであった。

したがって、生身の体を思いっきり殴り合ったという経験は誰もが持っており、その痛みや怖さはコンセンサスとしてある程度共有できていた。
それが、最近は子供や若者だけでなく、30代、40代の人でも、生まれて一度も人から殴られたことがない、人を殴ったことがないという人が増えてきた。

これは、空手という武道を教えるうえでは大変な障害となる。
なぜなら、そもそも護身という意味で武道を身につけようと思っても、一度も攻撃されたことがなければ、守るといっても何をどのように守ればよいのか、守らなければどういう結果が身に起きるのかといったことが実感としてわからないからである。

「火」を見たことがない者に「消火」を教えるようなものである。
「火」の熱さや燃え広がる勢いを知っていなければ「消火」の意義は理解できない。

空手も同じである。
殴ることの難しさ、殴られることの痛さなど、生理的な感触として知っていなければ空手を教えることはまったく意味を成さない。

殴る、殴られるという事が日常から無くなれば無くなるほど、こうしたイベント(殴り、殴られること)は一旦起こると本人にとっても回りにとっても一大事になり、倫理や法律もからんで大事件になりがちだ。

したがって普通の感性の持ち主はますますこうしたイベントは避けようと考え、結果として生まれて一度も殴ったり、殴られたことがない人になってしまう。
生まれて一度も人を殴ったり人から殴られたことがない人にいきなり殴られたときの防ぎ方を教えても理解できるはずもない。

言葉で説明しても実感できない。
体験にまさる学習はないのである。

まず、一度全力で殴ったり殴られたりしてもらう。
しかし、いきなり生身の体を殴られたのでは危険きわまりない。

したがって防具をつけて打ち合ってもらうということになるのである。
防具を着けて、お互い怪我をしないようなルールと安全性を考慮した十分な管理のもと、全力で殴り合ってもらう。

この全力で殴り合うという経験が大切なのだ。
私は、寸止め空手の全否定論者ではない。

むしろ、寸止めという世界でも珍しい格闘技のルールの中での洗練された技術には、パワー全盛の昨今の格闘技では決して開発されないであろう技術が存在し、それが最終的なノンルールの戦いでも有効であることは私は個人的にも実感している。

しかし、もっと原始的なレベルでの論議をしなければいけないような状況に今の日本はなっている。
昔から空手における寸止めの是非は問われていた。

しかし、当時は殴ったり殴られたりという体験は言わずもがなのコンセンサスであり、当てるのが普通という共通認識の中、あたる寸前で止めようというギリギリのルールが抽出されたのだ。

現在の日本はこうした大前提が変わってしまっている。
殴ったり殴られたりした経験を持つ子供や若者が激減している。

かといって暴力事件が減っているわけではない。暴力は一部の不心得者の専売特許になっているのだ。
これじゃ格差が広がる一方だな。

現空研では、まずこの殴り合うという原始的な体験をしてもらうことにしている。
再三言うが、安全にだ。

この体験学習は大変好評である。
感想で一番多いのは「爽快感」である。

男(女もか)はどこか闘争本能のようなものがあり、それを発散させたいという欲求が深層心理では渦巻いているのかもしれない。
普段は、倫理観や規則、社会通念などで押さえ込まれている。

それが、こうした形で合法的にしかも安全に放出できるのだ。
爽快でないはずがない。

次に多い感想が「思ったようにできない」である。
殴ることは、実は考えている以上に高度な動作なのである。

歩くのと同じくらい難しいのかもしれない。
歩くのが難しいって?

実は歩くというのは大変な動作だ。
怪我や手術でしばらくベッドに縛り付けられた人は皆体験するが、一週間も寝ていたら、最初に立ち上がったときまずまともに歩けない。

何十年も毎日のように歩いて(反復練習)いたのにたった1週間サボッタだけでこの体たらくである。
人生で一度も人を殴ったことのない者が、いきなり見様見真似で殴られるはずがないのである。

少しくらい空手の突きを教わっても、いざ生身の人間を相手に全力で殴りあうといったシチュエーションを前にしては、基本も何も吹っ飛んでしまうのである。
それから、皆、あまりの自分のスタミナのなさに驚く。

2分間の殴り合いは、おそらく殆どの初心者にとって、想像の何倍も長い時間であるだろう。
というより、フルパワーで2分間を戦うことは不可能だと思う。

その他、自分の拳の弱さなども実感する。
しかし、「痛み」に関しては意外感を持つのではないか。

たとえ防具をつけていたとしても、あまりにも痛みを感じなさすぎるのではないか。
これは、後日もっと上達して防具をなくしても、あまり変わらない感想である。

この他にも、個々人にとってはまだまだ新しい発見があると思う。
これほどこの体験はインパクトの強いものである。

現空研空手は、この体験をベースとして突き、蹴りその他の技を習得してもらうことになっている。
つまり、実戦空手の習得だ。

ルールのある競技で勝つテクニックではなく、実戦で勝ちを収めるための技術だ。
フルパワーでの攻防を何度も体験することで、逆にパワーに頼らない技を身に付ける事もできる。

形だけの受けではなく、実戦で意味のある受けもできるようになる。
こうした体験が背景にあれば、寸止めやライトコンタクトの稽古も意義深いものになってくる。

最初から防具なしのフルコンでやれば、もっとダイレクトにこのような効果を得ることができるかもしれないが、我々は社会人として通常の仕事をやっている普通の人のための空手を標榜しているので、どうしても安全性を第一にしたい。

安全に、しかも限られた時間で、万人が効率的に実戦空手を習得するためのぎりぎりの選択がこの防具を着けてのフルパワーの攻防という形になった。
フルパワーの攻防は毎回行う必要はないと考える。

フルパワーの攻防の体験が、他の基本や寸止めの組手の稽古を意義のあるものにするからだ。
拳を鍛える意義も実感として納得できるだろう。

トップページへ