愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

東京造形大学 コンピュータ技術論 第二回講義

2009/04/23


 

今日は東京造形大学の前期授業の第2回目の講義を行った。

 

タイトルはコンピュータの歴史。

どんな講義でもまず、最初にその歴史や発達の経緯が述べられるのは定番になっている。

 

コンピュータ技術論も今年度は内容を大幅に変えるつもりであるが、前期、なかでも序盤は例年とあまり変わらない。

しかし、タイトルは同じであっても中身は毎年違う。

 

試験に出す重要項目はあまり変わらないのは当然としても、挿話や脱線話は時々の私の関心事や時事問題も影響する。

今回は、歴史ということで、歴史一般の認識論から話を始めた。

 

最初の挿話は「元寇」

そう、蒙古軍が日本を襲ったあの歴史的な大事件である。

 

私は生まれ、育ちが福岡なので、特にこの「元寇」は身近な問題として捉えることができる。

元寇の「現場」には良く行ったものだ。

 

テレビの事件ものでも刑事が良く口にする言葉「現場に聞け」というあれだ。

歴史の教科書や授業で聞く定番の「元寇」事件は違った感想を持つことができる。

 

定番の「元寇」解釈で疑問に思うことはたくさんある。

それは、現地で肌で感ずる地理的な戦場の面積や防塁の様子、戦いが行われた多くの地点の距離関係などだ。

 

双方戦死者の大半が弓矢でやられた事、「やあやあ我こそは・・・・」というややもすると笑い話にされる口上も殆ど行われなかった事など、詳しく調べると平均的な日本人が持っている印象とはだいぶ違うことが分かる。

そうした事実は、現場に立ってみることでより確信を深めることができる。

 

やはり、現場を見るということは全て真実をさぐる原点であることがわかる。

と、ここで結論を出すのが今回の話ではない。

 

こうした、現場を自分の目で確かめる事を第一と考える考えを「現場主義」という。

今日は、この現場主義を無条件ではとらないというのが目的だ。

 

人間は体験によって得た知識は強烈なものがある。

また、説得力もある。

 

何しろ自分の目で見て触って体験した事は疑いようがないからである。

どんな高尚な反論を聞かされても「でも俺は見た」という一言にはなかなか勝てない。

 

しかし、一方体験程あやふやで不確かなものはないのも事実である。

どんなに成功しても、それはたまたま自分だけに起こった奇跡的な一例かもしれないからだ。

 

「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」という有名な言葉がある。

愚者は半径10m以内の出来事で全てを判断する。もっと広い見地から総合的に物事を判断せよ、というありがたいお言葉だ。

 

この「愚者は経験に学び・・・・・」という言葉は現場主義への主知主義者の反論のようでもある。

もちろんこれにも私は異論はない。

異論がないどころか積極的に賛同したい。

 

おいおい、お前は「現場主義」を礼賛しておいて、しかし無条件では賛同しないと言い、一方現場主義は愚者だとする考えにも異論は無いだと。

一体どっちなんだ。という声が聞こえてきそうだ。

 

実は私の思想の根幹をなす考えがこのあやふやな領域なのだ。ファジーとも言う。

私は、歴史を「ロマン」と捉える。そして現場主義は「事実」だ。

 

ロマンは好きだが「ウソ」は嫌いなのだ。

「事実」という検証を得た「ロマン」こそ真実の歴史である。それは他者の言動を鵜呑みにせず、かといって無味乾燥に事実を積み上げただけのものでもなく、現場を見る写実的な目を持ちつつ長く、広い歴史をロマン的視点でストーリーを汲み上げる、そういった思考ができる人間になってもらいたいと思って話した。

 

そして今回はこうした歴史観をもってコンピュータの出現を考えてもらいたいと思った。

コンピュータの歴史で最も覚えておいてほしい二人の人物「アランチューリング」と「フォンノイマン」を「ロマン」と「真実」の立場で脱線話も含めてお話したのもこういう意図があったためである。