東京造形大学平成21年度 コンピュータ技術論第一回講義

2009/04/16


  

今日は東京造形大学の前期授業の第一回目の講義を行った。

 

恒例により初日は自己紹介と講義の目的、そして受講に関しての心得の話をした。

今年は受講生の数がぐんと増え、約200名という大所帯となり、従来の教室では入りきれないので階段教室を使わせてもらう事になった。

 

階段教室は学生にとっても私の姿や黒板が良く見えると思うが、教壇に立つ私の方からも1人1人の表情が良く見えてなかなか良い。

私の講義の最初の約束は「開始のあいさつ」と「終了のあいさつ」である。

 

この原則は道場でも大学でも同じである。もちろん社会人になっても最も大切なことの一つである。

今日は「あいさつ」の大切さと、「あいさつ」というものが意外に難しいという話もした。

 

難しいと言えば、空手の道場で「気合」を出すという事が思ったより簡単でないという事実がある。

あいさつを礼儀として考える事がその原因だ。

 

「あいさつ」とか「気合」といった話は、礼儀とか規律といったカテゴリーで話題となることが多い。

要するに「あいさつ」は礼儀としての単なる約束ごとだからやろうと思えばすぐできる。できないのはやろうと思っていないからだ、という意識である。

 

これがそもそも大間違いなのだ。

「あいさつ」はそんなに簡単な事ではないのだ。

 

あいさつは心構えだけでは決してできない。

あいさつは技術である。英語で言えばアートだ。

 

格闘技と同じ「アート」なのだ。もちろん芸術でもある。

私はあいさつをアートと考え、テクニカルな問題として捉えている。

 

必要な時に「あいさつで大きな声を出す」という行動自体、「空手において突きを出したり蹴りを出す」というテクニックと本質的には変わらないからである。

相手が近づいてある間合いに入ったら間髪をいれずに「パンチ」をお見舞いするのと「あいさつ」をお見舞いするのは、社会的意義としてはま反対(ま逆)であるが、テクニカルな技術として捉えれば同質のものである。

 

意識的な訓練をしなければ身につくものではない。

大学ではあまり例をみないこうした「あいさつ」も少なくとも私の講義では毎回行うことになり、空手の技と同じように必ず身に付くはずである。

空手でも基礎的な技は週一回で半年やれば殆どの人は身に付くという経験則を私は持っているので自信を持ってこう言えるのだ。

 

今日は学習の要点としては二つの観点からお話をした。

一つは、何かを理解したかどうかは、そのことについて、何分(何秒)喋れるかで分かるという話である。

 

ある事柄について理解しているかどうかは、その事について喋らせればすぐ分かる。

いわゆる口頭試問がそれである。

 

何も知らない場合は、勿論何も言えない。

しかし、話題として聞いたことがある程度なら10秒くらいは喋れるだろう。

 

「あ、昨日ニュースで言っていましたよね、詳しい事は知らないのですが・・・・・・・・」

というような反応がそれである。

 

これは、学習というレベルで考えた場合は知らないのと殆ど同じである。

まず、そのことについて1分喋れる事。

 

これが学習の最低の目標である。

例えば「デジタルデバイド」って何ですか?

 

という質問を受けたとする。

全然知らない人は答えようがない。

 

しかし、一分間「デジタルデバイド」の概要について喋れる人は、それを知っていると判断して間違いない。

口頭試験なら合格をもらえるだろう。

 

これを「何だそんな簡単な事」と思った人は、時計で測って一分喋ってほしい。

1分の長さに驚愕するだろう。

 

空手経験者あるいは類似の格闘技やスポーツをやっている人なら一分の重さを十分理解し知っているはずである。

一分あれば、かなりの事が喋れるし、逆に生半可な知識ではあっというまにネタが尽きる。

 

30分以上話せる人は専門家の領域に近い。

大学で講義をするには、あるテーマについて90分喋らなければならない。

 

90分資料なしでそのことについて説明をし、質問を受け、あらたな問題点や課題を与えるということはその事に熟知していなければ出来ない。

逆にそれができることで理解のレベルを見当つけることができるのである。

 

私は学生はまず一分喋れるように学習することを第一段階の学習目標としてほしいと思う。

そして次の目標は30分以上喋れるという段階だ。

 

次に、もう一つの学習のバロメータとして具体的に文字数を意識して文章を書いて欲しいという話をした。

これも、最初の目標は200文字だ。

 

あるテーマで200文字書けるということが最初の一歩である。

喋る事との差は書かれた文章は冗長度が低い(冗長度も前期の講義で解説する)ので必然的に文字数は激減し、1分間の喋りと同じ情報量を盛り込むことが可能だからだ。

 

2000文字書ければ、ちょっとした小論文やエッセーになる。

ちなみに、この文章はここまでで約1600文字だ。

 

私が雑誌に連載したデジタル版徒然草は、最初が2000文字〜2500文字で書くように頼まれた記憶がある。

途中で、5000文字程度に変更になった。

 

5000文字だとかなり詳しくテーマを展開することができる。

私は、このサイトや現代空手道研究会のサイトのコラムを1テーマあたり2000文字〜5000文字を目安に書く事にしている。

 

あるテーマで2000文字書ければ、そのテーマを理解しているだけでなく自分の考えがある程度確立されていることを意味する。

学習の目安にもなる。

 

まず200文字、次に2000文字、これを目標にしてもらいたい。

 

以上が今回の最初の講義の骨子である。

その他、単位を取るための必要最小限度の目安や出席、試験の話などもした。

 

私の講座は教職課程をとるための必修科目でもある。

美術の専門家や教師として身に着けて欲しいことは瑣末なコンピュータやプログラムのカタログ的な知識ではない。

 

そんな知識は必要となればすぐ身に付く。逆に必要とならなければなかなか自分のモノにならない。

外国語の学習と同じ原理だ。

 

しかし「必要」が学習の原動力ではあっても、自己流は必ず限界がくる。

多少の才能やセンスがあっても自己流では、正統な教育を受けた者にはかなわない。

 

基礎的ではあっても私のコンピュータ技術論は常に物事の本質から解き起こす事を方針としている。

ここで学んだ事は、将来コンピュータで仕事をするようになった時必ず大きな力となるだろう。

 

この講座がエキサイティングで面白い、楽しい、と感じてくれれば私の目論見は成功したことになる。

「頑張る」者は確かに強い、しかし、最強の戦士は「楽しむ」者だ。

 

学ぶことを楽しんで欲しい。そしたら最強になれる。

これは空手でもコンピュータでも同じだ。